#114 この世の地獄
若狭街道の京側出口において、南蛮兵による待ち伏せはなかった。
拍子抜けだ。
気が緩んだ所為か、ハラリと涙が溢れる。
「そうか。ここが盛重の討たれた場所か……」
「はっ! その様に聞いておりまする!」
「亡骸は如何した?」
「それが、南蛮兵に持ち去れれたらしく……」
何の為にだ?
俺は嫌な予感を感じつつ、
「……で、あるか」
とだけ答えた。
遺体の無い佐久間盛重や共に逝った兵を弔った後、俺は粛々と軍を進め、夕刻になって漸く入洛を果たした。
見渡す限り、京は焼け野原と化している。
血の如き夕日に染まった松の枝先で雲雀が悲しげな声で鳴いたかと思うと、飛び去った。
俺の傍に立ち、街中を案内する役目を負う山科言継が一筋の涙を垂らす。
震える口が、悲しげな歌を詠んだ。
——汝や知る 野辺の都の夕雲雀 あがるを見ても 落つる涙は
嘆く気持ちが良く表れた歌だ。
「飯尾常房が歌でござるな」
前田利益が言った。
「左様。応仁の乱にて焼け落ちた、〝この世の地獄〟となりし京を嘆き悲しみ、詠んだ歌じゃ。まさか儂が同じ思いをするなぞ、考えもしなんだ……」
だがその当時、少なくとも人は京に残っていたのではなかろか?
しかし、今、俺の目の前に広がる、街の焼け跡には人影が一つも見当たらない。
乞食の一人すらだ。
俺の背筋を、冷たい何かが伝い落ちた。
「如何されたのじゃ、信行公」
山科言継が俺の顔を伺う。
俺は取り敢えず、
「都に人の気がないのは這々の体で落ち延びたからであろう。天子様が帰洛したと耳に入らば直ぐに戻る。故に、天子様には下々の慰撫をお願いしたいと思うのだが如何か?」
差し障りのない、無難な提案をした。
本心は、
(亡骸一つ無いのが気になる。万が一俺の予想が当たった場合、天子様や公家の連中を帯同しつつ行軍するのは甚だ危険だ。ここでお待ち頂こう)
だ。
今の血気逸る天子様に「危ないから京にお残りを」と言っても、承知しては貰えないだろうからな。
「……それが良かろう」
山科言継は応じた。
その夜、俺は天子様に対し今後の予定を具に説明した後に、重臣ならびに諸大名を召集した。
場所は「二条御所武衛陣の御構え」。
武家の棟梁「征夷大将軍」が住まいに選んだ館だ。
今は見る影もない。
焼け残った松が立つばかりである。
「明日の日の出と共に京街道を下る。先陣は近江衆!」
「はは! 有り難き幸せ!」
これには誰一人異論を唱えなかった。
それもその筈、多くの諸大名がほぼ休みなく、中には夜通しで行軍し、疲れ切っていたからだ。
越前で加わった朝倉勢ですらも。
故に、最も遅く征蛮軍に加わった近江勢を先に行かせる。
少しでも休ませる為に。
俺は彼らに鵺対策の引き継ぎを命じ、次の話題に移った。
「各々が抱える素っ破、乱破と称す者供との繋ぎが欲しい。急ぎ連れて参れ」
「素っ破など、信行公の前にお連れ出来ませぬ!」
「その通りですぞ! 乱破らを動かすなら、我らにお命じ下され!」
「戯けが! 平時なれば兎も角! 今はその様に悠長な事を言ってはおれぬのが分からぬか!」
俺は怒髪天を衝く勢いで怒りを露わにした。
だが「これはしまった」と言わんばかりの表情を浮かべ、
「いや済まぬ、赦されよ。天子様の思いに一日も早く答えようとつい焦ってしまった様だ」
非礼を詫びた。
しかし、後に紡いだ言葉にて、理由に思い至ったのだろう。
いや、思い至らせた、が正解か。
「信行公はそうまでして天子様を……。某、相分かり申したでござる! 当家で召し抱えし乱破衆、信行公にお預け致すでござる!」
「なれば当家のも!」
「我が軍には百名の素っ破がおりますれば、全て如何様にもお使いくだされ!」
仕込みとして叫んだ前田利益の後から、続々に快諾を得た。
(これで良し、と。さて、次は……とその前に)
「南蛮勢の動静を掴んでいる者は居らぬか?」
俺の問いに答えたのは、
「我が配下に」
「おお、これは上杉憲政殿!」
であった。
「……もしや、越後の軒猿か?」
「如何にも」
(有能だなぁ。その軒猿を、いや他の忍び衆も、これを機に織田家に組み込めたら……)
俺は内心、ほくそ笑んだ。
「して、現状や如何に?」
「大半の南蛮兵は大坂は石山の御坊入りし、残るは数珠繋ぎされた民を伴い、境湊に入ったとか」
「人狩りに遭った者らだな?」
「左様にございまする」
「境湊に連れ込んだと言う事は……」
理由は一つしか無かった。
「恐らくは、奴隷として南蛮に連れ去る為と思われまする」
此の場が一瞬にして紛糾した。
その時間は長く続いた気がした。
「えーい、落ち着け! 落ち着かんか!」
正直、俺も腸が煮えくり返る思いだ。
拉致など、誘拐した上で奴隷にするなど言語道断。
だが、ここは堪えねばならない。
来るべき戦に勝つ為に。
俺は再び、話題を変えた。
「三好勢は、三好長慶は何をしておる? いや、そもそも西国の様子は如何か?」
「三好勢の一部は本拠地である阿波に帰島。三好長慶、松永久秀などは飯盛山城、芥川山城を放棄。丹波入りしたと耳にしておりまする!」
「毛利の動静は伝わっておりませぬ! 南蛮船による砲撃を受けたのは確か故、恐らくは被害の程度が国外に漏れぬ様、手配されているかと思われまする!」
「紀伊の畠山は畿内の異変を感じ、我が元に使者を遣わした次第!」
続々と挙がる情報。
俺は林秀貞に整理を命じた。
その上で、
「少なくとも畿内に兵を有する大名、国人、寺社には兵と糧食の供出を命じる! この征蛮大将軍織田信行の名でな!」
「日の本の危機、天子様の窮地ぞ! 下らぬ諍いに囚われてはならぬ! よって! この日以降、私戦を禁ずる! 諸国に触れよ!」
「鉄砲、火薬、担い手がいるだけ、有るだけ必要だ! 軍勢に加われと申し伝えよ!」
「那古野の蔵人に命じ、最新鋭の大砲を船もろとも運ばせい!」
「勅令として、毛利の船を全て出させよ!」
諸大名、重臣らに仕事を割り振る。
全てが決したのは日を跨いだ頃合いであった。
だが、まだ終わりではない。
「信行公」
我が子の太郎が他人行儀に俺を呼んだ。
その背後に、召し出した者らを引き連れてるからだろう。
「ん? おお、素っ破共の頭が集まったか?」
「はっ!」
「して、如何程か?」
「二百余にございまする」
「良かろう。その者らに金子を預けよ」
「は、はぁ?」
「大坂への道すがらにある村々にて人手を募り、京街道に余計な物があったなら兵らが見えぬ所に避けておけ、と伝えてな」
「は、はは!」
太郎には俺の言った意味が分からんらしい。
だがそれで良い。
これはただの保険だ。
十字軍が異国の地で仕出かした何か、を予想した俺のな。
だが俺の保険は意味を成さなかった。
なぜならば、そもそも村々に人など残っていなかったからだ。
京街道には延々と、
——この世の地獄か!
続いていた。




