#112 伝えぬ訳
「……故、それを……何故それを先に伝えぬのか!!!」
俺は体の奥底から発せられた、炎かと思う程の熱をこの身に感じていた。
その余りの熱量に、視界が強烈な白光を浴びた様になる。
怒りだ。
自分でも驚く程の怒りが俺の内で生まれ、駆け巡ったのだ。
「お、織田様!」
気が付けば俺は、片膝立ちとなり太刀を抜き放っていた。
それどころか、山科言継に切っ先を向けていた。
天子様が遣わした、勅使だと言うのに。
怒りに我を忘れた所為だ。
(先の関ヶ原と言い! そして今回の大事を語らぬままの春日山行! 何処まで織田をコケにすれば気が済むのか!!)
刃先が小刻みに震える。
山科言継の喉元に赤い雫が垂れていた。
不思議と、誰も俺を諌めたりはしない。
(いや、諌められる訳がない)
この場にいる多くが、俺と同じ思いをしているのだから。
一方の山科言継はと言うと、顔色一つ変えず血を垂れ流している。
(……クソが!)
全てを覚悟した顔付きを俺に向けて。
それどころか、まるで何事も起きていないかの様に、
「全ては、海を埋め尽くす程の南蛮船が境湊に現れた時から始まったのじゃ」
と山科言継が語り始めた。
いや、良く見れば顔が疲労の色をありありと浮かべている。
僅かな合間で春日山を登り降りし、体力が尽き掛けているからだろうか。
俺は太刀を構えたまま、問うた。
「それは何時の話だ?」
「十日より前じゃな」
「それが真なれば、我らの耳に届かぬ筈がない」
織田の通信網は秀逸だ。
遠く薩摩での出来事ですら、数日有れば知る事が叶うのだから。
「街道に沿いと近隣の山々には上杉殿が〝軒猿〟なる素っ破を放ち、報せが届かぬ様にしていたと聞く。その所為じゃろう」
「……で、あるか」
つまりソレ(ラノベに出てくる様な忍者の活躍)が、上杉輝虎敦賀入りの一報が届かぬ原因だったと言うのか。
「南蛮人供は瞬く間に境を掌握したそうじゃ」
「……誰の話か?」
「這々の体で京に現れた津田宗及の言葉じゃ」
津田宗及とは俺も知る人物だ。
この当時の境で一、二を争う豪商だろう。
現代で言うところの政商。
それだけでなく、茶の湯の名人でもある。
石山本願寺の顕如や、三好氏とも昵懇の間柄らしい。
(だが待てよ?)
境湊を埋め尽くす程の南蛮船が果たして誰にも見咎められる事なく辿り着けるものだろうか。
何と言っても、境湊への途上には幾つもの大湊を経由しなければならない。
そして、その大湊を有するのは大抵はその地域を牛耳る大大名。
例を上げるならば博多湊の大友氏であり、尾道湊の毛利氏だ。
さらに言えば、瀬戸内海は現代でも有名な海上交通の難所が幾つもある。
南蛮船、それも湊を埋め尽くす程の船が容易く通り抜けられるだろうか。
俺はその点を指摘すると、帰ってきた答えは、
「南蛮船は難所を難所とすら思う事なく船を進めたらしい。まるで、どの航路を行けば通りぬけられるかを知っておったかの如く。それどころか、何処に湊があり、何処こであれば座礁せずにあの大きな船を止められるかも。じゃからじゃろう、西国の大きな湊は悉く、南蛮の大兵による人狩りに遭うたらしい。京に落ち延びて参った先の津田宗久が伝を頼りに集めた報せを持って参ったわ」
であった。
(人狩りだと!?)
俺には意味が分からなかった。
南蛮人が瀬戸内海の航路を把握している事もそうだが、人狩りを行った事に。
そもそも、南蛮人は必要十分な数の奴隷をキリシタン大名から得ていた筈。
火縄銃に使われる硝石や、その他の品々と交換する形で。
だと言うのに、東の最果てである日本にまで大艦隊を率いての人狩り、所謂奴隷狩りを行うなど……
メリットがまるで思い付かないのだから。
「人狩りだけではなく、去り際には船や家屋に火を放ち、湊のあらゆる物を火の海に沈めたとか」
「なんと言う蛮行悪行……」
「だがそれも、石山本願寺にて行われた事を思えば差したる出来事ではなかったのじゃ……」
山科言継の体が再び大きく震え始めた。
顔からますます血の気が引き、唇が見る間に黒く染まっていく。
震えの所為で、新たな刺傷が生まれた。
俺はこの段になって漸く、太刀を収めた。
「山科卿、一体如何された!」
懐から手拭いを取り出し、傷口に当てた。
「儂は丹後から戻る道すがら見たのじゃ……」
「何を!」
「頭から生えし鷲羽、鼻からは蛇が伸びておった。人の背丈の倍する高き所より睥睨する細き目、耳覆うほどに甲高い鳴き声、黒檀と見紛う色艶の獣皮、血塗られし長き牙に僧兵の遺骸を吊り下げおった化け物を……」
(何だそれは……)
「儂はそれらを一目見て何かを解した」
「なんだと! して、それは!?」
「あれは……ぇ……じゃ」
「……え?」
「左様! 間違いない、鵺なんじゃ!」
「鵺!?」
鵺……古来より伝えられる日本の妖怪だ。
数種類の獣が混ぜ合わさった体、と言う特徴を有する。
西洋風に言うならばキマイラだろうか。
平安末期の京都御所を夜な夜な騒がしたとか。
それがこの時代の日本に?
(……幾ら何でも嘘だろ!? 夢でも見たか?)
だが、山科言継の様子からは夢幻を見た訳ではなさそうだ。
となると、本当に怪物が日本に現れたと言うことになる。
しかも、南蛮人に引き連れられて。
(それこそ有り得ん!)
今の今まで俺は戦国時代に転生ないしは憑依したのかと思っていたのだが、実は良く似た異世界だったと言うのならまだしも信じられるがな。
山科言継の話は続いていた。
「鵺は雄叫び上げ、地響き立てながら逃げ惑う一向宗を文字通り蹴散らし、京へと向かっておったのじゃ。しかも、後から雲霞の如く続く浅黒い南蛮兵と共に……」
彼は能う限り馬車を走らせ、京の都へと急いだ。
三好氏が新たに舗装した京街道を使って。
駅で馬を換え、夜を徹してまで。
そうまでしてなんとか京に帰還した山科言継、早速天子様に事の次第を告げた。
その結果、内裏は忽ち上を下への大騒ぎと化したらしい。
狂乱は半刻ほど後に、近衛前久が登殿するまで続いたとか。
その近衛前久、天子様に拝謁するやいなや驚くべき方針を示す。
それは、
「京都守護に残した我が織田軍の半数に守られる形での都落ち、だと?」
であった。
「あの〝前なんとか〟野郎! よくもその様な勝手な真似を……」
「儂が縋ったのじゃ! じゃが、これだけは伝えさせて頂く。流石に、御二方は頷かなんだ。が、未曽有の事態故、佐久間盛重殿や林秀貞殿も最後には折れて頂いた。しかし、どうしてもと言うなら、誰かしら責めを負わねばならぬなら、この言継が負いましょうぞ!」
「くっ……しかしそれでは、京の都が……」
(あそこには後世に残さねばならない文化財が、加えて俺が拵えさせた螺鈿細工の地球儀も有ると言うのに!)
俺の懸念を知ってか知らずか、山科言継が俺の思いもしない言葉を吐いた。
「無論、京の都を、民をただ見捨て逃げただけには非ず。たまたま上杉輝虎殿が大兵を率いて近くにいる事を知っていた近衛前久殿が急使を遣わし、京の守りを願い出たのじゃ」
「……たまたま、上杉輝虎が大兵を率いて京付近にいる事を知っていた? 近衛前久が?」
「……左様、たまたまらしい」
(たまたまな訳があるか! もう、絶対に許さん!)
御所と都の危機を知り、急ぎ駆け付けた上杉輝虎とその軍。
これまた昼夜を徹した行軍を行い、辛うじて京都の手前で南蛮兵と対峙する事が出来たとか。
「その地とは……」
「山崎じゃ!」
鵺(?)に率いられた南蛮兵の軍対上杉輝虎。
物見によれば兵数は拮抗していたとか。
だが、それ以外の全てに差があった。
気力、体力、そして個の力だ。
(眉唾だが、鵺、だもんなぁ。上杉兵が幾ら精強でも、流石に化け物には勝てんよ)
加えて、寝ずに行軍した疲労。
見た事もない化け物に相対した恐怖。
対陣した直後に兵が算を乱し脱走しなかっただけでもエライと思う。
「鵺と上杉方先陣が当たる前までは戦になっておったらしい。じゃがそれは束の間の事であったと聞く」
「つまり?」
「弓矢も鉄砲も、更には槍も太刀も通らぬ鵺を前にし、先陣は瞬く間に崩れたのじゃ」
(なんだそれ……)
「上杉輝虎殿は御坊塚に本陣を敷き、最後まで軍配を勇ましく揮われたらしい。最後は恐らく、鵺に……」
山科言継は最後に、力なく言葉を零した。
(なるほど。あの上杉謙信が、な……)
最後は天子様の、京の盾となり散ったと言う訳か。
まさかの出来事に、俺は思わず両の手を合わせ冥福を祈る。
「つい先程まで雌雄を決せんとした敵将の死に……。流石は仁君と名高き織田信行様であらせられる」
涙まじりの声で、上杉憲政が言った。
見れば、山科言継もまた鼻をすすっている。
だが彼は、全てを語り終えようと未だ努めていた。
「……上杉勢を破りし鵺と南蛮兵はその勢いのまま、入洛したのじゃ」
「それはつまり……」
「京の市中は忽ち人の叫び声に満ち、呪詛に溢れ、何処に逃げても錆びた匂いが鼻をつき、家屋敷は鵺により崩された」
「なんと惨たらしい……」
「じゃが、それだけには終わらなんだ」
「なんと!」
「夜には空が茜色に染まり、夜を徹してもなお変わる事はなかった」
その意味は、
「悠久の時を刻みし都が燃え落ちたのじゃ……」
——京都炎上
だ。
山科言継が「京が攻め入られた」と先に伝えなかった訳は、既に京が陥ちていたからであった。




