#110 上杉輝虎の策略
第三巻が六月三十日に発売する事となりました!!
——春日山城を攻囲した我らが織田軍を尻目に、越後から密かに抜け出していた上杉輝虎。あろう事か三日程前に敦賀湊に上陸していた。しかも、三万もの精強な越後兵を率いて。驚くべき行動を密かに取り、見事に成し遂げてみせたのだ。敵将に対する畏怖の念が、織田の陣中を瞬く間に伝播した。
夜半に齎された報せの所為で眠れぬままでいると、東の空が白み始めた。
俺は直ぐ様、主だった者を集め、戦評定を開いた。
上杉輝虎の策略、その全貌が明らかとなるのに、然程の時間を必要とはしなかった。
「春日山に篭ったと見せ掛け、佐渡に渡っておっただと!」
「はっ……」
つまり、上杉輝虎とその兵は、そこから更に敦賀湊へと向かったのだ。
春日山城とそれに籠城した自身と言う餌に喰いついた俺を嘲笑うかの様に。
報せを聞いた直後とは異なり、落ち着いた今なら分かる。
上杉輝虎の狙いは那古野に攻め入るのではなく、城攻めした我らの後背を襲うつもりなのだ、と。
だが、問題はそれだけでは無かった。
「伊達と蘆名が上杉領内に兵を入れた!?」
まるで示し合わせたかの様に。
いや、同時期に他国を侵犯するなど、偶然である筈がない。
大方、織田と上杉が争ってる最中に乱取りを働くつもりなのだろう。
そもそも、伊達と蘆名は縁戚らしいからな。
(お手手繋いで仲良く火事場泥棒って訳だ)
その泥棒を追い返せるか否かは、越後残存兵の働きに掛かっていた。
「して、その数は如何程だ?」
「二万に御座いまする!」
「に、二万の軍勢が国境を越えたと、その方は申したか!?」
「ははっ!」
俺は我が耳を疑った。
万を超す兵を動かすなど、普通ではないからだ。
少なくとも、乱取り程度が目的である筈がない。
俺が尋ねる前に答えが出た。
「伊達と蘆名の軍勢を越後兵が先導! ここ春日山に向かっているとの事に御座いまする!」
「ば、馬鹿な……」
誰かが声を出して驚くも、俺は立ち所に理解する。
間違いない、上杉輝虎が呼び入れたのだ。
(南から上杉輝虎が率いし三万の軍勢に加え、北から二万の南陸奥勢が我らの前に……)
いや、待てよ。
敦賀湊は越前朝倉が差配する。
つまりは、上杉は朝倉とも示し合わせていたと言うことだ。
北国街道を急ぎ春日山まで下る為に。
(と言うことはだ。朝倉の兵が少なからず加わっているな)
しかし、そんな上杉勢最大の問題が春日山との間に存在する。
それは加賀だ。
加賀国尾山を拠点とし、加賀を差配する一向宗と上杉の対立は誰もが知るところなのだから。
加賀越えは文字通り命懸けの行軍となる事請け合いだ。
だが……果たして、戦国最強と名高い武将が何の勝算も無く危険な道を選ぶだろうか?
(否!)
如何なる手を打ったかは分からないが、既に話はついているのだろう。
となると、尾山御坊の一向宗すら上杉勢に加わっている可能性もあると言う事だ!
一向宗の数は少なく見積もっても三万。
つまりは、北国街道を下る上杉方の総兵数は七万前後となる筈だ。
ああ、上杉謙信よ!
ここに来てなんと言う策を弄するのか!
まさか……まさか、つい先日まで国境を争っていた相手を国内に導いてまで我らを討とうとするとはな!
さすがは戦国最強の武将と後の世にまで伝えられる〝上杉謙信〟!
関東の諸大名を率いて小田原攻めを為したのは伊達では無い、と言う事か!
(と、感心している場合ではないな)
俺は先ず初めに信広兄者を呼んだ。
「二万を率い、伊達と蘆名を押し留めて貰いたい」
「承知仕った!」
兵の数はほぼ同じ。
余程の事が無い限り、一息で抜かれる事など起こり得ないだろう。
これで北は良し。
続いて上杉輝虎が本隊だが……
「佐久間信盛!」
「はっ!」
「御主に……」
「更に三万の軍勢を預ける故、上杉の勢いを先ずは止めよ」と口にする寸前、俺は「いや待てよ」と思い留まる。
(果たして、上杉輝虎の策は南北からの挟撃だけであろうか、と)
春日山城に篭る兵も入れると三方からのある意味包囲戦。
攻め入った織田にとっては、実に難しい局面と言えよう。
だが、逆に言えば決め手に欠ける。
地の利を有する上杉勢が七万強に対し、我ら織田勢は総勢十一万。
倍する軍勢に対し、如何なあの上杉謙信とは言えだ、ただ包囲しただけで勝ち目があるだろうか?
(……そもそもだ)
上杉輝虎は小田原攻めの際、関東の諸大名を軒並み従えてみせた。
何故それが為せたかと言うと、強大な武力を有していた事は言うに及ばず、先代〝関東管領〟上杉憲政の後ろ盾があったからだ。
(幕府要職としての権威は、関東においては未だ高い……か)
思えば、伊達晴宗も確か奥州探題に任じられていた筈。
そんな彼らにとって、時の公方を討った俺の首は天下に名を馳せる絶好の供物と成り得る。
そう、ただ一戦を交えるだけでは駄目だ。
少なくとも俺に手傷を負わせ、敗走させる必要があるのだから。
それらを踏まえた上で、上杉輝虎が目論む乾坤一擲の策は……
(俺の暗殺……もしくは、上杉と関係の深かった関東勢による離反、ないしはその両方……か)
暗殺者に対しては前田利家が率いる兵法者の一隊が十重二十重に俺を守っている。
彼らの目を掻い潜り、俺を殺めるのは至難の業。
一方の離間の計に対しては……
(うん、関東勢を春日山に止めておくのはちと拙いな)
俺は今一度佐久間信盛の名を口にした。
呼ばれた当人は身を律し、続く言葉を待ち構えている。
「全ての関東勢を先陣とし、加えてその方が率いし兵と共に上杉輝虎を迎えよ」
佐久間信盛は一瞬、目を見開いた。
「……坂東武士に叛意の恐れ有りと申されますか?」
「上杉輝虎が相手なれば、十分に考えられよう」
「かの者らが良くは思いますまい」
「禊であると伝えよ。それに織田に降ったばかり故、手柄を立てる良い機会である、ともな」
彼は納得がいったのだろう、恭しく頭を垂れたかと思うと、
「ははっ!」
大音声を発した。
更に一日が経過した。
上杉輝虎の軍勢は未だ現れてはいない。
(おかしい。北国街道沿いの大名や一向宗は親上杉の筈。つまり、行軍を妨げる様な相手は皆無。幾ら何でもそろそろ斥候が相手側の斥候なり見つけられる頃合いだ。だと言うのに、戻った何れもが見出せなかったと答える)
上杉の軍勢が遅れているからなのか、伊達蘆名連合軍の動きも国境を越えた以降すこぶる鈍い。
なので、俺のいる本隊は春日山城攻囲を未だ続けている。
重臣らを引き連れ付近の丘に登ってみると、城下町はすっかり更地と成り果てており、春日山の麓までが見通せていた。
「裸城とは正にこの事でござるなぁ」
背後に控える前田利益による、呑気な物言い。
いつの間にか打ち解けた太郎が、
「女子と違い、同じ裸でも色気がまるでございませぬな」
こそりと応じた。
「いやいや、城も女子も存外同じでござる」
「はて、その心は如何なるものでしょう?」
「着飾る女子と床を共にする時こそが、最も心逸るでござる」
太郎は首を傾げたのだろう。
「加えて……いや、先の意味が分からぬ太郎殿には些か早いでござるな」
「そ、そこまで申されては気になって仕方がありませぬ! 是非とも話して下され!」
「しからば……一糸纏わぬ明け透けた娘よりも、襤褸のみで身をひしと隠そうとする醜女の方が漢は奮い立つものでござるよ」
「そ、その様な事……」
一体何の話をしてるんだよ。
っていうか、そんな戯言は脇に置いといてだ。
「上杉輝虎が未だに姿を見せぬ。誰でも良い、思いつくままに理由を上げよ」
俺は振り返り、居並ぶ重臣に話を振った。
最初に応じたのは今川氏真である。
「上洛したのではありませぬか?」
上洛し、天子様より錦の御旗を借り受ける。
関東管領の権威と相まって、道道の地侍、豪族を糾合し、引き連れる目論見ではないのか、と。
(有り得なくはない)
更に兵を集め、必勝を喫するは当然だ。
「あるいは病に倒れたのでは御座らぬか?」
と言ったのは北条氏政。
配下の風間曰く、上杉輝虎は月に一度必ず腹痛を患うらしい。
(おいおい、それって越後上杉にとっては最重要機密じゃね? それ程の情報を得られて、佐渡に渡っていた情報が何故得られなかったのか……)
ま、何かしら内蔵系の病気を発症していたと。
それが原因で重篤化した、か。
佐渡から敦賀への船旅は過酷と言えば過酷。
日本海の荒波って言うぐらいだしな。
病人には甚だ辛いものがあるだろう。
最後に口を開いたのは柴田勝家であった。
「京都守護代に任じられしは佐久間盛重殿。もしや、春日山へと急ぎ向かう上杉勢を背後から討ったのではあるまいか?」
「それはないで御座ろう」
「佐久間盛重殿は目先の手柄に逸り、お役目を投げ出す様な方では御座いませぬぞ」
「それに上杉輝虎が背後からの強襲に備えぬ訳が御座らん」
「柴田殿じゃあるまいし、でござる」
「わ、儂とて真にその様な事が起こるとは思っておらぬ! ま、ま、万が一を思うて!」
変な方向に盛り上がりを見せ始めたので、俺は手を打ち鳴らし、場を鎮めた。
「もう良い。あと数日このまま待つ」
「春日山は?」
「捨て置けば良い。その気がない者に無理矢理迫っても、俺は楽しめぬでな」
それから更に三日後。
事態が急転する事に。
それは、
「何? 街道に馬車だと?」
が齎した。
「はっ! 馬を急かし、北国街道を下ってまいりまする!」
「一体何者ぞ?」
馬車と言えば織田の代名詞。
何故ならば、他国は道路事情もあってか、未だに人力による荷駄が荷運びの主流であったからだ。
それが何故上杉輝虎がいるであろう京都方面から来るのか?
(織田家の者であれば、必ずや上杉の兵に止めらるだろうからな)
理由は直ぐに知れた。
「菊の御紋?」
その意味する所は、
「天子様からの勅使だと……」
であった。
(何だろう。すこぶる嫌な予感が……)
そしてそれは、現実となるのだ。
大変永らくお待たせいたしました。
何とか完結出来そうです。




