#107 関ヶ原を終えて(3)
永禄八年(西暦一五六五年)一月 那古野城 二の丸 奥書院
先月の頭、信広兄者が武蔵国へと向かった。
当初の予定では、年明け後の筈だと言うのにだ。
まるで、何かから逃れるかの様に。
更には弟の信包までもが、正月を待たずに遠江へ帰ってしまった。
「なぜなのか……」
「拙者が思うに、家中が荒れているからではござらんか?」
前田利益の言う通りである。
我が織田家にお家騒動が起きてしまったのだ。
「まさか、山田太郎が信行様の……この利益すら、我が耳を疑った次第」
そう、言うならば〝信行の庶長子〟だろうか。
先日小姓に取り立てた山田太郎がだ。
(全く記憶にない。於文って誰だよ。名前を聞いても思い出せんぞ……)
津々木蔵人によると、背が高く男勝りな後家であったらしい。
(十四、五の小僧がその体にのめり込んだとか。何してんだよ、信行……)
織田家中でも「信行様が安食村の娘に入れ込んでいる」と、一時話題になったとか。
だからだろう、荒尾御前も直ぐ様ピンと来た。
嫁ぐ先の嘗ての醜聞は聞きたくなくても耳に入る。
致し方のない事であった。
(しかしまさか、子を成しているとはなぁ……知ってたのか、信行?)
知っていたのかも。
だからこそ、山田郡篠木三郷を信長より押領を計ったのだ。
(もう少し、上手くやれなかったのかねぇ……)
織田家の優等生を自負していた信行だ、難しかったのだろう。
それに、
「津々木蔵人殿にも男の子がいる事を隠していた様子。しかし、不思議でござるなぁ」
「何が?」
「一時期噂に上った村。子が生まれたなら、相手が誰だか直ぐに分かるでござろう?」
「それがな、自らは夜陰に紛れて事を為す間、お供には村の外れで待たせていたらしい」
相手の事は入念に秘匿していた。
まさか、お殿様のお子が後家に入れ込んでいるとは、流石のお天道様でもわかるめぇ、であった。
「覚えておらぬと言うのがまた……」
「太郎を傷つけてしまった。頭を打ち一部を思い出せぬと言っても、信じられぬだろうしな」
俺はため息を吐く。
「しかし、正月早々那古野城の奥はまるでお通夜でござるな」
「子を皆連れ出されてしまったからな」
「まぁ、奥方様の怒りはごもっとも。庶子とは言え長子でござる故」
「信広兄者も信包も、余計な火の粉を被りたくないらしい」
「信包様は兎も角、信広様も庶長子でございますからな。当然でございましょう」
ここで庶長子である太郎が家督を継ぐとなれば、自らを担ぎ出す勢力が現れるかもしれない。
今思えば、それを信広兄者は嫌ったのだろう。
「で、如何なさいますので?」
「如何するも何も、元から決まっておる」
「ほう。では、お聞かせ願いましょうぞ」
俺の言葉に、部屋の襖越しに声が応える。
「この荒尾にとくとお披瀝あれ」
俺は思わず、額ずいた。
「面を上げてくだされ、信行様」
「し、しかし……」
「もう怒ってはおりませぬ」
「え?」
「於市様に諭されたのです。本に良く似た兄弟だこと、と」
良く良く聞けば、兄である信長も後家の体にのめり込んだとか。
しかもそれが、吉乃であった。
吉乃や奇妙丸の手前、悪い、とは言えないらしい。
「そ、そうであったか……」
「怒ってはおりませぬが、許した訳ではありませぬぞ?」
「何をしたら許してくれよう?」
「先のお話が先でしょうに」
「おお、そうだった、そうだった。於坊丸を元服させる」
無論、烏帽子親は俺こと織田信行だ。
同時に、奇妙丸他の元服を執り行っても良いが、烏帽子親は重臣たちにする。
これで、名実ともに於坊丸が嫡男であると世に示せるだろう。
「それで終いにございましょうか?」
まだ何かある、と?
俺は首を傾げた。
すると、荒尾御前の目が険しさを増す。
「待て! まぁ、待て! その様な所でいつまでも仁王立ちせず、蓄熱器(那古野三和土で造作された箱に、熱した木炭が入れられている。輻射熱で部屋が暖まる)の前に来るが良い」
「いえ、その前にお言葉を賜りたく」
「くっ……」
謎解きに入る俺。
傍にいる男が荒尾御前に聞こえぬ音量で一言、
「太郎様の事でござる」
と囁いた。
(太郎? ああ、山田太郎をどうにかしろと? ああ! なるほど!)
俺は膝を打った。
「浮かんだ妙案が妾どもの思いに叶えば宜しいですなぁ」
「勿論だ! (重臣の中には男の子がおらぬ者がいる! その者らに養子として迎えさせよう! ……だが)妾ども?」
「信行様はお子がたいそう多い故、皆、自ら腹を痛めた子が大事にされるか心配しておるのです」
「うん?」
「適当な家に放り込まれるのではないか、と」
「……おお、そうであったか! だ、だが、心配致すな! (やっべ! 危なかった!) ちゃ、ちゃんと考えてあるぞ! えっとだな……(どうする? 俺、どうする?)」
「ほう? それでは、お聞かせ願いましょうぞ」
「……(そうだ!) う、うむ! 太郎は同じ織田家、信広兄者に託すつもりぞ!」
庶子ですら織田を名乗れる。
これならば他の子らも織田の名を継げる、そう思うに違いない。
荒尾御前も納得がいったのか、
「良いお考えにございまする」
とだけ言い残し、部屋を後にした。
緊迫した空気が薄れ、安堵のため息が漏れる。
前田利益が、
「実に見事な、尻に敷かれ様、でござる」
笑った。
「ぬかせ。男は女の尻に上手く敷かれてナンボだ」
「卓見でござる」
しかし、問題が残っていた。
「信広様とその家中に根回しせねばなりませぬな」
「ああ、信広兄者に頼み込まねばならぬ。しかも、御主ら腹心では駄目だ。この信行自らが頼み込まねばならぬ。それも、噂話として信広兄者の耳に入る前にな」
「では……」
「急ぎ於坊丸を元服させ、それが済み次第武蔵国に参る」
「関東の諸大名には、信行様が武蔵入りする前に旗幟を明らかにせよ、と伝えたのではございませぬか?」
「……」
「信広様が武蔵入りしてから、僅か一月でございまするぞ。報せが届いておらぬ大名、小名、豪族、それに国人衆が……」
「それはあちらの都合だ!」
「稀に見る酷い話」
「それにこちらの都合は待ってはくれぬ! 急ぐぞ、利益! 何と言っても、お家の大事、であるからな!」
「そして、そのまま春日山征伐でござるな」
「ああ、そこは予定通りよ。雪解けと共に上野国、信濃国、飛騨国から同時にな!」
◇
ポルトガル領インド首府ゴア
征東十字軍本隊がゴアに駐留してから随分と経っていた。
「〝黄金のゴア〟とは言い得て妙だな。そうは思わぬか?」
団長であるジャン・ド・ヴァレットが従者に問う。
対する彼は、
「土も、家屋も、空気に牛までも黄色いですからね!」
吐き捨てる様に答えた。
「それよりも、ヴァレット団長」
「何だ?」
「本当に彼らを連れて行くつもりなのですか?」
「何が問題だ?」
「彼らは異教徒です」
「異教徒だった、だ。今や改宗し、紛れもなくキリスト教徒である」
「異教徒の、しかも不可触民と呼ばれる者達です!」
ヒンズー教により迫害され続ける人々。
一説には全人口の二割近くがそうであったらしい。
十六世紀、インドの人口は一億人前後であった。
つまり、不可触民はざっと二千万人程いた計算になる。
「アウターカーストだった者達、だ。我らキリスト教徒が彼らを救い出した。ここゴアだけで、三万人だ。ほれ、キリスト教徒として好きなだけ誇るが良いぞ。それとも、反対なのか?」
「断固反対します! 彼らの肌は……」
「黒い……と言う程黒くはないぞ?」
「ですが……」
「寧ろエキゾチックだ。儂はあれはあれで好きだ」
ヴァレット団長は指の匂いを嗅ぎ、
「香りもいい」
ニヤリと笑う。
「団長!」
「それに良く良く考えてみよ。ここまでの道のりで、既にどれだけの兵を失ったかを」
三割近い損失。
後発隊を含めたならば、五割に達するだろう。
現代の基準に当て嵌めれば、壊滅判定は必至である。
「それだけでは有りません! あの様な獣まで! 本当に必要なのですか?」
「要るな」
「何故です!?」
「ここゴアに着き、我らが相手にする者らの一端が垣間見えたからだ」
「はぁ?」
「分からぬか? ならば、これを見てみよ」
ヴァレット団長が従者に放り投げた代物。
それは作家高島荒尾の手による、那古野錦絵本、であった。
漢字が読めれば分かったであろうが、織田信行の名が表紙には記されている。
「か……神への……冒……涜……です」
従者は初めの数ページを読み進めただけで、そう断定した。
「ん? ああ、すまん、すまん。こっちだった。〝那古野版解体新書〟だ」
「え? こ、これは!」
「人の身体を開け、骨、臓物、血管を具に記してある。それだけではないぞ、各々の器官に注釈が添えられているだろ? いかにその器官が働き、いかなる理由で壊れるかが」
「え、ええ。確かに……」
ヴァレットの従者は事ここに来て理解した。
「我らはもとより、オスマン帝国よりも進んでいる?」
「少なくとも医に関する分野に関しては、その可能性が高い。ただ、船や鉄砲、大砲を買い漁ってたとも聞く。つまり、武器性能は我らよりは劣るのだろう。が、それは先方も承知している。何らかの策を練る筈だ。だからこそ、もう一枚、相手の意表を突く品が必要なのだ」
「それが、あれらなのですか?」
「ああ、あの者らを止める術などない。そして、新たに加わる同胞達。この書を作り出した者の、恐怖に歪む顔が目に浮かぶわ!」
貴様も、救援のあてもない中、ただただ塀の中で大兵に蹂躙される恐怖に怯えるがいい、ヴァレット団長はそう嘯き、嗤った。
それから数週間後、ゴアから本隊が順次進発する。
「イエズス会によれば、ゴアから件の島国まで三月から四月だったな」
「ええ。少なくとも三月後には拠点となる駐屯地に入れるでしょう」
「例の薬は持ったか?」
「那古野エリクシルですか? 勿論です。無論、先遣隊も」
「なれば良し! さぁ、者共! 出航だ!」
日の本の民はまだ誰も、この事実を掴めてはいない。




