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#104 キリスト教徒の大移動

 西暦一五六四年。

 この年に、後の歴史書には必ず記される〝大変革〟が起きた。

 ユーラシア大陸西端に住んでいたキリスト教徒の一部が、一斉に東を目指し始めたのだ。

 たが、ここに記しておかねばなるまい。

 当初は実に平穏に事が進められていたのだと。

 それは、ジャン・ド・ヴァレットの残した手記にも認められていた通りである。




  ◇




 スエズのとある一角の屋敷に、ヴァレット団長の姿があった。


「……四年、八月二日。スエズは本日も快晴哉。現住民との間で大きな諍い起きず、本隊は順次ゴアに向け出港中。先遣隊は脱落者も無く、ゴアまで無事に届いたで候、と。ふむ、これで良いか」


 彼はそこで、日課である手記を記していた。

 すると、何やら屋敷の中が慌ただしくなった。

 その理由は直ぐに知れた。


「団長! ヴァレット団長!」


 彼の従士が只事ならぬ様子で駆け込んできたのだ。


「何だ? また、貧民街の婦女子を襲う輩が現れたか?」

「そんな些事でお忙しい団長をわざわざ呼んだりしませんよ! スエズの首長も黙認しているんですから! そうではなく……」


 ジャン・ド・ヴァレットは聖ヨハネ騎士団の団長にして、此度の征東十字軍本隊の責任者でもある。

 故に配下には不殺・不盗を徹底していた。

 逆に言えば、それ以外は半ば容認していた。

 それが、七世紀より続く由緒ある商業都市スエズとの、誠実な交渉、の成果であった。

 なぜならば、人口が十万にも満たぬ都市に、五月雨式にとは言え十万以上にもなる異教徒の軍が訪れるのだから。

 貧民街で女が襲われようが、男が襲われようが咎めぬ。

 「お願いだ! 嵐よ一刻も早く去ってくれ!」それがスエズの切なる願い、なのだ。


「貧民街近くの商家を訪れていた有力者の娘が数名拐かされた!? して、大事はなかったのか?」

「ええ、目撃した者の口は封じましたので」

「おい、まて。それは違うだろうが」

「はい? 私は事後処理に忙しいので先を続けますよ。で、ここからが本題……」


 誘拐犯は一路地中海へと向かった痕跡が。

 それはつまり、


「拙いな。すこぶる拙いぞ」

「ええ、スエズまでの経路が如何に安全で、如何に行き届いた代物であるか、が知られてしまうかもしれません」

「孤立するカイロ総督府を説き伏せ、最低限の糧食を出させたのだからな」

「あれを説得と言うのでしょうか? 〝人口二十万前後の街を、倍するキリスト教徒が攻囲して無事だと思うなら出さなくとも良い〟とか言ってませんでしたか?」

「あれは……我らキリスト教徒の風聞を再確認しただけだ」


 と言う事であった。

 従士が「流石、我らが団長」と言わんばかりに目を輝かせている。


「で、娘を拐かした者達はその事実を?」

「勿論、知っております! と言いますか、ヴァレット団長が自慢気に説明されていたのではありませんか?」

「……したな」


 ヴァレット団長は苦々しく答えた。


「……さて、答え合わせをするか。何が問題か?」

「拐かした者らが呼び水となる可能性が高いです」

「炎天下とは言え緑豊かな水辺沿いの街道を僅か数日、しかも何一つ不自由の無い旅程で大金を得られるのだからな」

「日が落ちてから歩けば尚更でしょう」

「では、如何程になろうか?」

「ここは大変豊かな交易都市です。見るからに豊かな大店が軒を連ね、人々は着飾る余裕もあります。加えて、水も溢れている。この様な噂が広がれば……」

「貧困に喘ぐ者が大挙して押し寄せる、か」

「私が為政者なら、数日分のパンのみを渡し、地中海を渡る船に役立たず共を無理やり押し込みますね。二度と戻っては来れないでしょうし」

「貴様は悪魔か」

「いえ、それよりも性質の悪い、ヴァレット様の従順な僕にございまする」

「どこがだ。……にしても、カイロが用意した糧食は早々に尽きよう」

「腹を空かした獣がスエズへ、ないしはカイロに向かうでしょう」


 顎鬚を撫で、束の間考え込むヴァレット団長。

 やがて、彼は口を開いた。


「本隊は勿論の事、後発隊も計画通りに進捗している」

「それは私めも承知しております。しかし……」


 ヴァレットの従者が言い淀む。

 彼の主は「今更だ、構わぬ」と先を続けさせた。


「ただ、曰く付き、札付きの集団は後発隊に多いんですよね? 大丈夫でしょうか……」


 十字軍後発隊と新たに追加されるやも知れぬ困窮者やならず者集団。

 そんな輩が一同に会し、徒党を組む事になったりしたら……


「地中海を渡る船には限りがある。その様な懸念は無用であろう」

「ですが……」

「それに、儂は先遣隊の手配と無事な送り出し、その後を本隊と共に追うのがお役目。そして、その手筈は十分に整えた。後から参る後発隊が如何するかは、その隊の統率者が考える事だ」

「いや、だから心配なんですってば。後発は異民族、異教徒と見れば問答無用で奴隷にする様な輩が続くんですよ? それも何十万と。困窮者が加われば、下手したら百万かも知れません。それがもし、このスエズを皮切りにカイロ、更には一帯を荒らし回ったら……」


 比較的異教徒に対して穏健なプロテスタントを先に送り、極めて敬虔なカソリック教徒を後発に配する。

 これはヴァレットがローマ教皇とのやり取りで何度も念を押した、最優先事項であった。


「まるで、ゲルマン民族の大移動、の再来だな」

「ゲルマン民族の大移動?」

「嘗て起きた大変革の事だ。それが目の当たりに出来るやも知れぬ」

「???」

「何だ、騎士のくせにそんな事も知らんのか? 黄色い猿共の奴隷になるのを恐れ、我らの祖先が安住の地を逃れ、西へ西へ、南へ南へと当て所もない旅をした歴史を。蛮族の大王はそれすらも追い掛け、あろう事かミラノをも落とし、時のローマ教皇をも震え上がらせたのだ。それら戦役が契機となりローマ帝国は西方領土の多くを失い、やがてはフランク王国などの跋扈を許した。……本当に知らんのか?」


 従者は「流石は団長です」と再び賞賛した。




  ◇




 そう、まるで遊牧騎馬民族であるフン族に押し出される形でゲルマン民族が大移動を始めたかの様に。

 人を人とも思わぬキリスト教徒により無辜の民が逃げ惑い、山へ谷へ、更には砂漠へと追いやられたのだ。

 それすらも執拗に追い掛ける一部のキリスト教徒。

 力なき民、難民が行き着く先は、神による永遠の繁栄が約束された地、オスマン帝国となるのは致し方のない事であった。

 その結果、彼の帝国の治安は劇的に悪化する。

 そしてそれこそが、巨大な帝国が一時的とは言え大いに衰退する引き金となったのだ。

 これが世に名高い、〝キリスト教徒の大移動〟である。

 世界は大いなる変革の時を迎えたのだ。

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