#103 十字軍
時のローマ教皇が熱狂する民衆を前に十字軍の必要性を説いた、その少し前。
マルタ島の騎士団こと聖ヨハネ騎士団に、ローマ教皇から勅書が届けられていた。
「ヴァレット団長、これを」
齢七十とは思えぬ鍛え抜かれた体をした男に対し、その従士が件の勅書を恭しく差し出す。
封蝋された印は間違いなく、ローマ教皇からである事を示していた。
受け取ったヴァレット団長はと言うと、
「ふん!」
と鼻を鳴らしたかと思うと、読む事もなく放り投げた。
「ちょっ!?」
従士の顔は蒼白となり、大いに慌てた。
「せ、せめて開けて読みましょうよ! 教皇からの勅書なんですよ! 間違いなく勅令が書かれているんですから!」
「はっ! どうせ中身は〝マルタを死守せよ〟で終わりだ。このヴァレット様にはなぁ、まるっとお見通しよ!」
すると、従士は盛大な溜息を吐いた。
「またそれですか? 全騎士団員に招集を掛けた以降、確かに団長の勘は冴え渡っています。書状の内容も悉く当てる程です。だからって、勅書の中を検める事もなく放置するのは違うんじゃないでしょうか?」
「はっ! 何がローマ教皇だ! 何がスペイン王だ! ロードス島を失った我ら聖ヨハネ騎士団を顎でこき使いやがって! 何が、団長はマルタ島から離れてはならぬ、だ! 何が、死んでも死守しろ、だ! しかも、彼奴ら肝心な時に遅れやがる! 今後こそ、かの首を掻き切ってくれるわ!」
「あわわわわー! 聞こえなーい、聞こえなーい! ったく、そういう事は私のいない所で口にして下さい! 私はこう見えてもスペイン王、果てはローマ教皇に対し絶対の忠誠を誓っているのですから!」
「けっ! 数万のオスマン兵に取り囲まれ、本土からの救援も一切なく、聖エルモ砦に立て篭り、水も食料も絶え、四肢も満足に動かせない状況となっても、果たして同じ事が言えるかなー!?」
「はいはい、大変だ、大変だー。ちゃんと備えますよ、たしか……四カ月分? 資材の手配は可能な限り何とかいたします。が、その時はその時です。そんな事よりも、早く開けて読んで下さい。内容次第では急ぎ伝令を仕立てなければなりませんので!」
「そんな物は必要ない! それと、これは読み終わり次第、ケツ拭く紙にするからな!」
「ええ、どうぞー。ごじゆーにー。切れ痔になっても知りませんけど!」
その僅か後、マルタ島の何処にいても聞こえるほどの絶叫が起こり、島を揺るがした。
◇
「で、ロードスの騎士は、ジャン・ド・ヴァレット如何であった?」
「使者に遣わした者によりますれば、大きな声で叫んだ直後に倒れたとか」
「まさか、理不尽な命を受けて怒りのあまり……」
「いえ、ご安心下さい、猊下。倒れた際の顔には満面の笑みを浮かべていたとか。それに、二日後には目覚め、十字軍を祝してマルタ島の奴隷売春婦を全島民に解放し、団長自ら率先して楽しんだ様です」
「……確か、七十歳ではなかったか?」
「はっ! 不死鳥のヴァレット、今ではそう呼ぶ者が多いとの事」
「……」
言葉に詰まった教皇。
気の利く従僕がタイミングよく注いだワインで、喉を濡らした。
「時に興味深い献策があったらしいな」
「件のヴァレット団長からにございます」
教皇は一瞬逡巡した。
「……話せ」
「はっ! ヴァレット団長曰く、暗黒大陸を迂回する大西洋海路ではなく、カイロ付近の沿岸部を目指す地中海海路を取ります。第一集合地点はその沿岸部と定めます」
第一集合地点からは一転して陸路を行く。
目的地は紅海に面する港町スエズ、そこが第二集合地点であった。
「陸路……。オスマンのカイロ総督が黙っておらぬのでは?」
「青肌の海賊共を地中海に放ち、彼の国の手足をもぎとります。その際、猊下のお言葉が必要になるかと……」
「良かろう。しかし、迷うのではないか? いや、そもそも食料と水だ。歩く以上、余計に掛かる」
「近隣の町や集落に協力させれば良い、と申しております。異教とは申せ我らは巡礼の徒である。施されて然るべき。差し出さねば腹を空かせ、渇えた十字軍が訪れるだろう、と言えば喜んで差し出す筈だ、と」
「屁理屈ではあるが……理には適っておる。それに嘗ての十字軍が何をしたか、良く良く知られておるからな」
「加えて、船で暗黒大陸を行く場合、半数は沈みかねず。東方へ行く前に被害が大きくなってしまいましょう。十字軍は一画千金を夢見る交易商人ではございません。早く、確実に、が宜しいかと」
「成る程な。良く分かった、先を続けよ」
スエズ以降は土地の者が操る船を使い、第三集合地点であるゴアを目指す。
ゴアから先はマラッカ等を経て、マカオ、ルソン、その他に設けた居留地へと向かう。
そこが、聖戦開始直前の、最後の集合地点となる。
「まて、土地の船を使う?」
「慣れぬ海路を行く船ほど危険なものはない、とか。加えて船を休ませることなく動かせるので荷が早く運べるらしく。ああ、それと……」
アラブ人の船は、積み荷となる人を載せられるのは精々百名まで。
よって、その数を隊の上限とし、各国を発たせれば後々困らぬ。
「と、申しておるそうで」
「流石は団長。十字軍の指揮を任せても良いやもしれぬな」
「ええ、船乗りの病に関しても造詣が深いようでして、酸いた果物を用意せよ、とありましたな」
「しかし、問題はやはり金と食料だ。船を出させる金、その間の食料。異教徒の地で湧き出てくる筈もない」
「それに関しても、〝現地の首長に出させる。巡礼者が来る度に略奪を働かれるよりはマシだ。船を出さねば巡礼者がその地に留まる事に。最低でも数十万の、武装した異教徒の兵が〟です。そうなりますと、一体何処の誰が一番困るのでしょうねぇ」
「全く、恐ろしい手を考えた物だな」
「船に関しても届け先で必ず割符を受け取り、それを見せなければ不首尾とみなし殺すと脅せば良い、とか」
教皇は大きく息を吸い、それを吐いた。
「流石は団長。真に頼りになる男よ。上手くいった暁には相応の褒美を約束しよう」
「ああ、それに関しても聞き及んでおります」
「ほう? してそれは何と?」」
「何でも件の島国をマルタやロードスの代わりに欲しい、そう申されたらしく」
「黄金の国をか! はは、剛毅な者よ! 流石は団長、よな!」
それから暫く後、民衆の熱により生じた風を受け、大きく帆をはらませた第一陣の船が各国の港を発った。
船大工や各通過地点の責任者となる者らを乗せて。
遥か東に向けて、十字軍が動き始めたのだ。




