#102 蝶の羽ばたき
「……は……つゆか涙か……不如帰……わが名を……あげ……よ……雲の上……ま……で……」
征夷大将軍足利義輝の辞世の句。
だと言うのに、俺は今一つ聞き取れなかった。
するとそこに、足利義秋が這々の体で現れた。
昏倒から目覚めた直後だからだろう。
「あ、兄上! そ、そんな! そこのお前! あ、兄上は、い、い、い、今、何と詠われていた!?」
頭を強かに打った所為で錯誤しているのか。
俺はそんな足利義秋を無慈悲にも蹴倒し、取り押さえる。
「な、ななな、何を致すか!」
喚き始めた足利義秋。
俺は馬乗りとなり、更には殴りつける。
「室町幕府最後の将軍の言葉! 黙って聞け! 公方様は織田に降るとの意思をお示しあそばされた!」
「そんな! ば、馬鹿を申すな!」
「馬鹿とな! 今のは紛う事なき〝源氏長者〟の言葉ぞ!」
足利義秋の目が足利義輝に注がれる。
しかし、ピクリとも動かない。
どうやらすでに……
だが、それはそれとして——
「公方様の傷は深い! 誰か! 誰かおらぬか!」
そう呼んで真っ先に現れたのは、
「おお、蔵人! それに利益も!」
津々木蔵人と前田利益の二人であった。
「良いところに来た!!!!」
不必要な大音声、足利義秋の体がビクッと跳ねた。
俺は気付かぬふりをして、満面の笑顔を二人に向ける。
「蔵人! 公方様が降る意思を示されたがこの通りだ! 急ぎ那古野にお連れ致し、傷の手当てを致せ!」
股下で足利義秋が喚き出す。
前田利益はニヤッと口を開けたかと思うと、何も言わず俺の代わりに足元の芋虫を確保した。
一方の津々木蔵人は暫し考え込んだ後、
「…………………………御意!!!」
と応じ、足利義輝を未だ生きてるかの様に抱え、「公方様お気を確かに!」と声に出しながら、運んでいく。
その姿に満足した俺は大きく頷く。
そしてようやく、
「公方様が降られた! さぁ、皆の者! 勝鬨をあげよ!」
俺は戦の終わりを告げたのであった。
関ヶ原に轟く歓声。
それに呼応するかの様に、足利義輝の陣地に稲妻が立て続けに落ちた。
まるで天からの祝福である。
しかし、見方や立場を入れ変えてみると、それはまるで足利義輝の御霊を幽世に送る鐘の如し。
(……感傷など、俺らしくもないな)
時は永禄七年(西暦一五六四年)九月上旬。
そう、俺はしぶとく、織田信行として生きて候。
◇
織田信行と足利義輝が覇を競い合った関ヶ原での戦い。
世の予想に反し、織田信行が勝利を収めた。
しかもそれだけで終わる事もなく、征夷大将軍である足利義輝を戦で負った傷の療養を名目として尾張国那古野に連れ帰ると言う、誰もが思いもよらぬ結末を迎えた。
が、国境を接する全ての国々から、それも同時に攻め入れられ、存亡の淵に立たされた織田信行、彼はそこで矛を収めなかった。
勝者の当然の権利として、織田領侵攻の旗を振り、最後は降った足利義輝の領地へと手を伸ばしたのだ。
近江国を手始めに、山城国、伊賀国へと。
特に山城国には戦功第一位の佐久間盛重に加え、林秀貞を送るなどして。
当然、彼らだけで山城国の政が上手くいく筈もなく。
治安が回復次第、伊勢貞孝や体力の戻った細川晴元と、彼らの配下だった者らを手配する。
それは、半ば残滓となりつつある室町幕府を織田家の制御下に置く為でもあった。
一方、足利義輝の激に応じた諸将はと言うと……頃合いを見計らって早々に引き上げた上杉輝虎を除き、散々な目にあっていた。
北畠具教は滝川一益の指揮する兵により、拠点である大河内城にまで追い立てられた。
だが、彼は命があるだけましな方だ。
多くの者が命を落としたのだから。
朝倉、武田、更には北条の諸将が悉く討ち死にした。
それも戦の最中にではなく、国許に帰る道すがらにだ。
山の中をあるけば山窩の類に、川の葦原に隠れれば河原者衆に、月も隠れる夜道を歩かば勝手知ったる土地土地の土豪らや百姓らによって。
正に死屍累々。
「一度織田領に攻め入ったなら帰る道は二つしかない。一つは織田に降り生きて帰るか、今一つは骨となり死んで帰るか、だ。だが、生きて戻りし地は既に織田の物。戦の意味なぞないと思え」と囃される程にだ。
いずれにしろ、日の本の勢力図は大きな変化を余儀なくされる。
関ヶ原は真実、天下分け目の戦い、であった。
◇
尾張国 那古野城
弓場で弦音が鳴り響く。
幾度も幾度も。
邪気を払い、場を清める儀式の様に。
俺は一人弓を射ていたのだ。
あれから、関ヶ原の戦いから半月が早くも経った、と思いに耽りながら。
僅か半月で日の本の勢力図が、なんと大きく変化した事か、と。
その中でも最たる物が、
「足利義輝様の妻子が皆、那古野に着いたそうで」
「利益か、耳が早いな。ああ、細川と伊勢がな、うまく話をつけてくれた」
幕府をコントロールする術を得た事だろうか。
「だが、間に合わなんだ。対面あそばされた時には、公方様はもう既に……」
「信行様が関ヶ原でお討ちになられましたからな」
「……だが、辞世の句はお伝えは出来た。それだけが救いよ」
——秋雨は つゆか涙か不如帰 わが名をあげよ 雲の上まで
「真の天下、それを望まれていたのでしょう」
「で、あろうな」
しかし、この世、此度の世は彼に無情だった。
いや、その他多くの英傑らにとっても。
北条氏康は信広兄者に討たれ、香坂虎綱ら武田の武将も前田利家らに乗っていた馬ごと斬り捨てられた。
朝倉義景などは一向宗に撲殺された所為で首級が判別出来ない程に成り果てた。
だが、生死が判明したのは良い部類だ。
武田信玄などは関ヶ原以来行方が分からなくなっている。
(上杉勢に拉致られたとか言う噂が流れたが……)
代替わりも出来ず、武田義信は随分と難儀しているとか。
「天下は定まりましょうか?」
「それをこの信行に問うか」
「はい、信行様故に」
天下……か。
信広兄者が三河から駿河に掛け、北条勢を一掃した。
まるで鉄砲水の様に。
川底に溜まった汚泥を押し流したのだ。
弟の織田信包がその澄んだ川の中を泳ぎ、遡上する。
向かった先は信濃国。
東山道を警戒していた信濃の武田勢は不意を突かれ、瞬く間に瓦解したのであった。
一方の、駿河に入った信広兄者は流石に歩みを止めた。
が、代わりに戦働きを担ったのが、今川氏真である。
彼は伊豆に攻め入り、僅かな日数でこれを平定した。
伊勢や越前もだ。
それぞれ滝川一益や佐久間信盛らが上手くやっている。
那古野を中央に配した織田の版図を、随分と押し広げてくれているのだ。
しかも、地続きでない場所も新たに加わろうとしていた。
丹羽長秀と斯波義銀、それに木下藤吉郎によって。
武蔵野国に織田が攻め入る端緒を設けさせていた。
(あの港が完成した暁には、美濃、飛騨などから人を攫った上杉輝虎に対する討伐軍を天下に号令せん!)
上手くやれば、上杉に対し恨みのある諸大名、豪族は織田に降るだろう。
いや、降らせねばならない。
「思えば、随分と変わった」
「信行様が天下を差配します程に」
「誰がこれを予見出来たであろうか?」
「おりますまい。織田が幕府を私するなど、途方もない事ゆえ」
「左様有り得ぬ。少なくとも六年前は想像だにしなかったであろう」
誰が、とは敢えて口にしない。
「民の為に回り道をする? 、どの口が言うたか!」と叱られそうだからだ。
だが、それにしても〝織田信行〟と言う存在が現代人に入れ替わっただけで、こうも歴史が変わるものなのだろうか……
いや、歴史云々を除いてみれば、似た様なお伽話はあったか。
たしか……蝶が羽ばたくと遠いどこかで竜巻が起きる、とか言う。
「なるほど、そういう事か」
「ん? 何やら刮目したご様子」
「ああ、この世の摂理よ。俺はそれを体現してみせたのだ。言うなれば、蝶が舞う 明日は嵐か 泰平か、であろうか」
「泰平。転じて大兵に変わらなければ良いのでござるが」
「ははっ、違いない!」
弓場が楽しげな声に溢れた。
それは那古野城を包み、やがては織田領内隅々へと伝わるだろう。
泰平、かくの如し、であった。
◇
その嵐が形成されようとしていた。
いつ?
今まさに。
何処で?
日の本より遥か遠き場所にある異国の地、そこはユーラシア大陸の西端、同東端にある日の本からみれば文字通り地の果てで。
誰が?
市井の人が。
何をする?
獣の如く、鬨の声を高らかに上げようとしている。
何故?
固定化された三分〝祈るもの 闘うもの 働くもの〟の世界に、人々の怨嗟がガスの如く満ちたが故に。
どうやって?
それは勿論……
「我らカソリックとプロテスタント共が、下々の前で手を携えました」
「見えぬ所でナイフの切っ先を食い込ませあってはいるがな」
「全ての民は夢を見ました」
「善良なる民も、罪人共もおしなべて等しく、か」
「いえ、罪を犯した者の方が幾分喜んだに違いありません」
「違いない。免罪した故にな。が、プロテスタント共相手に吐き出す筈であった鬱憤が溜まっておろう」
すると、その言葉を聞こえていたかの様に、彼らのいる部屋にまで群衆の叫びが届いた。
寺院の前の広場と、そこに至るまでの道を人々が埋め尽くす、そんな景色が男達の頭を過ぎった。
「加えて、戦う者らもまた等しく」
「新たな栄誉、武勲を競って求めるであろう」
「猊下がお認めになるのですから」
「ロードスの騎士は新たな戦地を求め、与えられん」
「テンプルの騎士は新たな宝物を求め、彼の地で得るでしょう。金銀の流れが途絶え、奴隷も彼の地から得られなくなり難儀していたようですから」
「ふんっ、まるで金貸業よ! 貸付先の商家が潰れて困るなど、騎士団の言う言葉か!」
「金貸業は甲冑姿で辺りを威圧し、税を求めませぬがね」
「その商人共が此度は真っ先に泣きついてきたのだ」
「彼の地から得られた奴隷は、ゴアを守る肉壁に最適だったとか」
「赤き土の地に、黄色き血は良く良く馴染むのであろう。もっとも、本音は莫大な権益を失ったからであろうがな」
「色と言えば……青肌の旧カルマル連合(デンマーク=ノルウェー、スウェーデン)らがオスマン帝国沿岸部を荒らしているとか」
「ヴァイキング共は船の扱いが上手い。彼奴等もすこぶる梃子摺るだろう」
「それにしても、一体何処で補給しているのやら」
「不思議よな。もしかしたら、先日オスマン帝国に降ったベネチア辺りが助けているやもしれん。オスマン帝国の船を一艇焼き払う度に一人、港を一つ焼き払う度に三代に渡って天国に行ける、と我が名で宣言した事も多少は働いたかもしれんがな」
「奴隷の権利も与えたのが良かったかと。あの地は寒さで碌に人が育たぬとか」
「違いない」
男達は顔を見合わせ、ニタリと嗤った。
「いずれにしろ、この機運を見逃す訳にはいかん」
そう、全ては時の為政者が司るのだ。
満ちたガスに火をつけるなど、造作もない事なのだから。
男は窓を開け、部屋の外に設えられたバルコニーに足を踏み入れる。
途端に辺りの空気が激しく揺れた。
「猊下! 猊下! 猊下!」
まるで狂気に取り憑かれたかの様に同じ言葉だけを叫ぶ人々。
なのに、呼ばれた男は平然と両の手を空に伸ばす。
「敬虔なる信徒達よ!」
騒ぎがピタリと止んだ。
誰も彼もが息を呑み、ただ一点を恍惚した眼で凝視している。
中には滂沱の涙を流しながらの者さえいた。
動くものは目に見えぬ熱気のみ。
むせ返るほどの臭気が真新しい寺院を汚した。
「マタイによる福音書六:三三にこうある〝神の国とその義とをまず第一に求めないさい〟と。汝らは求めていようか!?」
耳を劈くほどの唸り声が「おぉぉ!」と応える。
「〝されば、その全ては与えられん〟!」
その言葉に応えたのは、先ほどよりも大きな音、音、音。
まるで、連続する地滑りである。
「だが、我らが神はこうも仰せだ! 〝汝らはキリストのために、キリストへの信仰だけではなく、キリストの苦しみを分かち合わねばならぬ〟と! 汝らは邪なる教えに苦しむキリストを助け、その痛みを共に分かち合えようか!」
今度は神の怒りが落ちた。
すると、群衆はすべからく神の騎士へと成り代わる。
「ならば、〝思いの全てを神に委ねん。神は汝らの行いに、その御心を砕いて下さるであろう〟!」
東の果てで蝶が舞い、西の果てで嵐が生まれた。
ただ、その嵐はその地を荒らさず、ゆるりと東へ向かった。
次話から次章となります!




