亀裂 1
世界は、重大な秘密を隠している。
「ちょっと~。ケンジ君~。そこどきなよ~。つ、く、え、が動かせないで、しょ~。じゃーまー。どっけどっけ、さっさとどっけ」
マールがなにか催促してくるがとりあえず無視しておこう。
スカートの裾をしきりに気にしながら床を雑巾がけする女生徒。適当に箒を振っているだけの怠け者。ふざけあいながら教室の窓ガラスを拭いていて、落っこちそうになっているお調子者。それらの先に見える光景。
そこには『樹』が、そびえ立っている。
すでにこの町の風景の一部となってきたそれは若々しく、生気に満ちている。青々と茂る葉は、意外と一枚一枚はさほど大きくないようだ。
あまりに大きく、あまりに偉容。その姿は神々しくさえも見える。
よく、ファンタジーゲームなどに出てくる、『世界樹』なんてのは、あんな感じなのだろうか。
ここからは見えないが、あの樹の下には、『根海』と呼ばれる根っこ部分があり、そこには悪魔のような生き物が生息している。
あれがどこから来たのか、なぜそこにあるのかは誰にも分からない。
五日後、この軍施設にいるアンドロイドは、あの中心部、『樹』の幹に当たるところに侵攻する予定だ。
そのことを考えると、わくわくする。
悪魔どもとの戦闘で命を落とす事は多分に考えられる。実際に、これまであそこを目指した調査隊などは、ほとんど生還を果たしていない。この軍の仲間だってこれまで幾人も倒れてきた。だが、恐怖などは微塵もない。
それよりも、あの『樹』の秘密、世界の秘密を明かせるかもしれないと思うとそれだけで嬉しくなるのだ。
「ゴウく~ん、ちょっと手伝って~」
なんだ、マールめ、今、いいところなんだ、厄介ごとを持ち込むなよ。そうそう、ゴウでもこき使って遊んでやれ。
俺は再び樹の謎について思いを馳せる。と、急に視界が反転し、激しく頭を打ち付けられた。
「って~な、何しやがる」
座っていた机ごとゴウに放り投げられた。よほど深くあっちの世界に行っていたのだろう、俺は立ち上がり、怒鳴りつけたあとにようやくそのことに気が付いた。
「何しやがる、じゃな~いい。掃除のジャマっ。手伝わないんだったら、ケンジ君はとっとと教室からでっていきなさ~い」
もう放課後だった。
昼飯を食べたぐらいから意識がなくなっていて、気づけば自分の机の上に座って考え事をしていた。
まあ、要は授業をさぼって寝ていたら寝ぼけて机の上に座ってた、ということだ。いつものことだ。
「また、ケンジの気持ち悪い癖が出たな。夢遊病者だろお前」
「うるさい、ほっとけ」
なんとも珍妙な癖だが、無意識なので許してもらおう。
俺は、意外にきれい好きなマールに邪魔者にされて、教室を後にする。
廊下に出たところで、どこか浮かない顔のリコと出会った。
「よう、どうかしたのか?シケたツラして。昼に喰ったモンが腐ってたのか?」
「お腹が痛いんじゃあない、君のように拾い食いはしない」
なにげに、ひどい言われようだ。
「じゃあ、なんなんだ?」
リコは、普段は冷静な風を装っているが、なにか問題があれば、一目瞭然なほど露骨に狼狽える。
今も、あからさまに顔を青ざめさせて非常に沈鬱な面持ちだ。
「うん、さっき、教官に呼ばれただろ。そのことだよ」
と、俯いて落ち込んでいる。
「だから、なんなんだよ」
聞きたいのはその内容だ。だんだん焦れてきた。
「特命だって」
「おお、すげえじゃねえか、どんな?」
授業の終わりに、ミヤケに呼び出されたリコは、軍からの特命を受けたのだという。
それは、五日後に控えた大侵攻作戦、通称『ジュ作戦』。それに備えて、小規模な最終の調査隊を出すことになった。その調査隊員に、彼女が選ばれた、ということだった。
「やったじゃん、なんでそんなに落ち込んでんだ?俺たちで調査しまくって大手柄たててシャルリエや博士を見返してやろうぜ」
張り切って腕まくりをする。彼女が落ち込んでいる理由がよく分からない。これってチャンスなんじゃないのか。
彼女はまだ何か言いたそうにしている。辛抱強く彼女の言葉を待った。
「僕……、だけなんだ」
やがて蚊の鳴くような声を絞り出す。
「え?」
「僕だけなんだよ、今回調査隊に選ばれたのは。後は、別の隊の選抜……」
途中で遮って、
「ふざけんなっ。お前が選ばれて俺が選ばれないなんて、どういうことだ? 俺たちはチームなんじゃないのかよっ。一蓮托生なんじゃないのかよ。くっそ、……ちょっと行ってくる」
「えっ、どこに?」
驚いたように聞いてくるリコだったが、
「決まってる、ミヤケのところ」
教官に抗議しに行こうと駆け出そうとする俺を制するように、
「能力のある者だけが選ばれる。当然じゃないか、実際。それだけ今回の作戦が重要だってことだよ。君は確かにバカみたいに強いけど、本当にバカだろ。だから選ばれなかったんだよ、実際。どれだけ強くても作戦行動に向いてないバカは実戦じゃあ役に立たないんだよ。実際」
振り向くと、偉そうなしたり顔の少年。それを取り巻くように三人の男女が立っていた。
端正な顔立ちだが、どこか嫌みな印象を受ける口元が、それを台無しにしていた。
「誰、お前達?」
ニヒルな少年はコケた、ここ十年でまれに見る見事なズッコケを魅せてくれた。
「君と同じクラスのレイジだよっ。だから、バカだっていうんだ、実際」
転んで汚れた膝を優美な仕草で払う。顔は引きつっていたが、自力でなんとかペースを掴みたいようだ。
あと、どうでもいいが、実際、というのが口癖のようだ。
「お前らみたいなモンも調査隊の一員なのか?」
レイジは俺の無礼な言い草に、グッと一瞬言葉に詰まるが、ない余裕を見せつけようと、胸を張っている。
「そうだ、僕らとリコ君が調査隊に選ばれたよ。ってゆうか、『みたいなもん』ってなんだぁ。バカのくせに。まったく。リコ君も大変だね、実際。こんなバカと同じ研究所で生まれたばっかりに苦労が絶えないだろう、実際」
かわいそうに、といった調子で、ケンジの対面に所在なげに立つリコに言葉をふる。
「僕は、……別に……」
モゴモゴと口ごもるリコ、例え本当にそう思っていたとしても、バカ本人を目の前にしてそんなことを言えるわけがないだろ、実際。
「とにかく、俺は目ん玉節穴教官に直訴してくるぞ」
お前達なんかじゃ拉致があかない、とばかりにブツブツと不満を口にしながら俺はこの場を立ち去ろうとする。
「ふん、勝手にしたらいいさ、実際。さあ、リコ君、僕らの研究所で明日の作戦会議でもしようじゃあないか」
彼女は逡巡していたが、肩を怒らせながら教官の控え室に向かう俺を追ってはこなかった。
レイジ達と行くことにしたようだ。