第十話 毛利軍本隊―進軍開始。②
その瞬間も、毛利軍本隊は押し寄せ続ける。距離は刻一刻と縮まり、やがて互いの顔や甲冑の細部までかすかに見えるほどになった。旗のはためく音、馬の嘶き、槍のきらめき――全てが迫ってくる。
「……ゴクッ」
桜は無意識に唾を飲み込む。
官兵衛には堂々と答えたものの、胸の奥で脈打つ鼓動は早く、重く、そして苦しい。
――これから始まるのは、千対一万の、命がけの戦いだ。
恐怖が、鋭い氷の鎖となって心臓を締めつけていく――。
「大丈夫ですよ、桜様。」
不意に耳元で落ち着いた声が響いた。すぐ隣に立つ赤松兵が、真っ直ぐな目で桜を見据えている。
「桜様は、私が命に代えても、必ずお守りします。」
「え……?」
あまりにも唐突で力強い言葉に、桜は目を丸くした。
兵は兜の奥で微笑む。
「以前、私の寝たきりの父を桜様が治療してくださったんです。…結局、父は亡くなりましたが、姉が言っていました。あの時、本当によくしてくれたんだって。」
少し声を落として続ける。
「やっと、御恩を返すことができます。」
「あ……。」
桜の脳裏に、あの古びた長屋での光景がよみがえる。薄暗い部屋の布団に横たわる男、その傍らで看病する娘。差し込む光の中、三人で交わしたささやかな笑い声――。
「あなた…あの人の息子さん!?」
兵は照れくさそうにうなずき、兜を軽く傾けた。
「姉さんにその方はうちの殿様だって言ったら、腰ぬかしてましたけどね。」
「おらもだ!」
別の赤松兵が前に出て、腰をくねらせながら笑う。
「以前、桜様に腰痛を治してもらっただ。ほら、この通り、もうなんともねえ!」
「俺は子供の熱を診てもらった。」
「おらは、桜様が作った念術治療院で火傷を治してもらったんだ!」
次々に声が上がり、戦場の緊張の中にも温かな空気が流れ込む。
「みんな……。」
桜の顔から緊張が解け、思わず口が綻ぶ。
「こんな殿様は他にいねぇ!敵が一万だろうが十万だろうが、必ずお守りするんだ!!」
兵たちの力強い言葉に、桜は迷いを吹き飛ばすように大きく頷き、細剣を高々と掲げた。
「みんな、がんばろう!みんなで生きて家へ帰るの!!」
「オオオオオッ!!」
赤松兵たちの咆哮が、山を揺らすほどの勢いで響き渡った。
地を揺るがすような雄たけびが山々に反響し、その轟きが毛利軍の列まで届いた。
隆景は眉をひそめ、すぐさま全軍に停止を命じる。
「全軍、止まれ!」
隆景の号令が伝令によって次々と後方まで走り、兵たちの足がぴたりと止まった。
隆景は近くに控えていた側近を手招きする。
「敵は千人程度で間違いないのじゃな?」
「はっ!複数の偵察部隊からの報告でも、いずれも千人前後と一致しております。」
(……千対一万。勝敗など比べるまでもないはず……)
しかし、先ほど耳にした咆哮が、理屈を押しのけるように胸奥に残っていた。
あれは、ただの威勢ではない――兵全員の心を一つに束ねた、覚悟の音だ。
隆景は馬上から周囲を見回す。鬱蒼とした山林が視界を覆い、道の両脇には高木と下草が密集している。
(この地形……視界は悪く、隠れる場所はいくらでもある。まさか……伏兵か?)
頭の中で即座に戦況図が広がる。しかし赤松家に一万の軍を覆すだけの予備兵力があるとは思えない。
(いや……赤松家の軍師は、あの謀略に長けた黒田官兵衛。あの男なら、虚を突く策を仕掛けてもおかしくはない……)
わずかな可能性が隆景の判断を縛り、毛利軍本隊は不気味な沈黙の中で動きを止めた。
戦場の空気は、まるで嵐の前のように張りつめていた。




