第十話 毛利軍本隊―進軍開始。①
ドドドドドッ――。
小高い山の上に構えられた赤松家本陣。そのはるか眼下、山裾の戦場から土煙と轟音が押し寄せてくる。
地響きは大地そのものを震わせ、耳の奥まで響く低音が鼓膜を打った。
砂塵の向こうから現れたのは、幾重にも波打つ旗の群れ。毛利家の家紋を染め抜いた旗指物が、風を裂きながら進軍してくる。
まるで巨大な黒い津波のように、一直線にこちらへ迫っていた。
「報告っ!」
偵察兵が本陣に駆け込み、膝をついて息を荒げる。
「敵、毛利軍本隊――数、約一万!」
刹那、陣内がざわめきに包まれた。
「い、いちまん……だと……?こちらは千人しかいないのに……!」
「敵の数が多すぎる……!」
赤松兵たちの顔は蒼白に染まり、声が次々と不安を連鎖させていく。
だが、ただ一人、その動揺を断ち切るような鋭い声が響く。
「うろたえるな!」
黒田官兵衛が前へ進み出る。
「この本陣は周囲を砦化しておる。易々とは破られん! 硬く守り抜けば必ず勝機はある!」
官兵衛の声に、兵たちのざわめきが次第に収まり、張りつめた空気が戻っていく。
(吉川元春、小早川隆景が別働している今、あの本隊を率いるのは毛利輝元のはず……。あやつは戦を知らぬ若輩者、まだ付け入る隙はある……!)
官兵衛は冷静に胸中を巡らせた。
その時、土煙を巻き上げる外の気配に重なるように、同盟家―宇喜多の伝令が駆け込んでくる。額に土をつけ、息を切らしながら大声で叫んだ。
「主、宇喜多直家より伝令! 小早川隆景は――あの敵本隊にいるとのこと!」
「なっ……!?」
官兵衛の瞳が大きく揺らぐ。
その瞬間、眼下の毛利軍本隊の中央に、はためく旗が見えた。小早川の旗印。その傍ら、当主―毛利輝元の横で悠然と歩を進めるのは、紛れもなく隆景本人であった。
一万の兵力――赤松軍の十倍という圧倒的な数。その全てが、西国随一の知略を誇る隆景の指揮のもとにある。
山を揺るがす大軍が、赤松家本陣へ押し寄せようとしていた。
官兵衛は唇を噛みしめ、思考を巡らせる。
「……生半可な采配で、宇喜多殿の目を欺けるはずがない。遠方からこうも巧みに小早川隊を動かすとは……!」
勝ち目など、誰もが失われたと感じていた。陣内の兵たちは次々と頭を垂れ、敗北の影が重くのしかかる。
しかし、官兵衛はしばらく深く俯いたのち、顔を上げた。その眼差しには鋭い光が宿り、迷いはなかった。
彼は桜へと歩み寄り、まっすぐにその瞳を見据える。
「殿……私は姫路城へ向かい、政秀殿の真意を確かめねばなりません。――ここの指揮、お願いできますか?」
「え……?」
桜の心が大きく揺れた。
(わ、私が……部隊の指揮を……?)
突如、目に見えぬ重圧が天から降りかかり、そのまま鋭い鉤爪で心臓をわしづかみにされるような感覚が走る。息が詰まり、胸の奥がじりじりと熱を帯びていく。
(でも……!)
逃げ出したい衝動を押し殺すように、桜はぐっと胸にこぶしを押し当てた。
(善助……又兵衛……友信……、それに宇喜多家のみんな。自分達の国を守るために、今まさに命がけで戦っている……。そんな時に、私だけただ待っているなんて……できない!)
やがて、桜はまっすぐ官兵衛を見返した。
「わかった、官兵衛……ここはまかせて!」
力強い言葉に、官兵衛は大きくうなずく。
「頼みました、殿。」
そう言うと官兵衛は馬にまたがり、僅かな供とともにまっすぐ姫路城の方角へ駆けていった。




