第八話 毛利の両川③
山陽地方――備前の地。
鈍く光る曇り空の下、風もない平原。広々とした草地の上に、宇喜多の軍勢がずらりと整列していた。
槍を握る兵たちの視線は前方を鋭く見据え、弓兵は弓弦を軽く引いては緩め、肩の緊張をほぐしている。
鎧の継ぎ目から微かに蒸気が立ちのぼるほど、皆の呼吸は熱かった。
宇喜多直家は、静かに空を仰ぎ見ていた。
その瞳には遠い過去の残像が映し出されている。記憶をひとつひとつ手繰り寄せるように、彼は心の内で戦場を思い返す。
迫りくる敵将――小早川隆景。
その名を思うだけで、胸の奥に鋭い棘が突き立つ。かつて備前をめぐり、幾度となく刃を交えた因縁の相手。
矢雨の中で睨み合い、槍と槍をぶつけ合った日の光景が鮮やかによみがえる。
普段は一切の感情を表に出さず、冷徹に算を巡らせる直家。しかし今、その目に宿るのは張り詰めた緊張の色。唇の端がかすかに引き結ばれ、呼吸も浅くなる。彼にとって隆景は、ただの敵ではなかった。勝ち負けを超えて、自らの才覚を真正面から試してくる「強者」だったからだ。
そこへ、草の音を踏みしめながら、東の方角から新たな軍勢が近づいてきた。
朝露に濡れた草を踏む音が重なり、まるで鼓動のように地を伝って響く。
その先頭に掲げられているのは、赤松家の家紋。
蒼に染められた旗が静かに風を裂き、空高くひるがえっていた。
やがて互いの顔が識別できる距離にまで接近し、赤松軍の一団の中から一人の男が歩み出る。
深く被った三角頭巾から、冷静な眼差しが宇喜多軍を見渡していた。
「使者を使わせた通り、援軍として参りました。」
赤松軍の将―黒田官兵衛の声はよく通り、軍勢のざわめきを鎮めるように響いた。
官兵衛は一歩踏み出し、さらに言葉を重ねる。
「備前へ毛利軍―小早川隊が迫っているとのこと。いそぎ防衛の準備をしましょう。」
宇喜多直家は、姿勢を崩さぬまま小さくうなずいた。その口元には微かな笑みが浮かんでいる。
「これはありがたい!援軍、感謝するぞ。」
声には歓待の色が込められていたが、その瞳はまるで底の見えぬ水面のように静かで冷たい。
「それはそうと……播磨西部ではここ数日、豪雨が続いているとのこと。さぞかし進軍が大変であったろう。」
直家の問いかけに対し、官兵衛は軽く肩をすくめ、飄々とした口調で返す。
「なんの。精強なわが軍であれば豪雨の中での進軍など、晴天の日と変わりません。」
その答えに、直家は微笑する。
「それはたのもしい!」
そして、ふと赤松兵たちを見回し、目を細める。
「それにしても、兵達にほとんど泥はねもなく、綺麗にしておるな。」
官兵衛は愉快そうに笑い、わざとらしく胸を張る。
「はっはっは。泥まみれでは格好がつきませぬ。さきほど泥をふかせたのですよ。」
その言葉に、直家は「ほう……」と呟いた。だが、次の瞬間、その右腕が静かに上がる。
それはまるで何気ない仕草のように見えたが、合図だった。すかさず宇喜多軍の兵たちが動く。
刃の音が一斉に鳴り、無数の槍が、弓が、そして抜かれた刀が、赤松軍へと向けられる。全員の動きは機械のように統一されていた。
「な……!?」
官兵衛の顔に初めて動揺の色が浮かぶ。目の前に突きつけられた刃を前に、一歩も引けぬ状況の中、絞り出すように問いかけた。
「直家殿、これはどういうつもりです――」
しかし、直家の声は冷たく、そして容赦がなかった。
「ここ一週間、播磨西部に雨は降っておらぬ。」
冷徹な声が刃のように官兵衛に突き刺さる。
「……へーえ」
官兵衛が微笑むなり、姿がゆらりと歪んだ。
水面に石を投げ込んだように、彼の姿は揺らぎ、やがて仮面を剥がすように真の姿をあらわにする。
そこに立っていたのは――
「さすがじゃな。宇喜多殿。」
凛とした、しかし耳に心地よく響く声が場に落ちる。
その瞬間、淡い光に導かれるように、一人の女の姿が幻影の中から現れた。
そこに立つのは、毛利軍が誇る才知の軍師――小早川隆景。
しなやかに伸びた肢体は女性らしい華奢さを持ちながら、背を正す姿には一点の揺らぎもない。
腰下まで流れる金の髪が風を受け、まるで九尾の尾のように妖しく揺らめく。
艶やかな白い肌は陶磁器を思わせ、着物に染められた黄色がその美貌をいっそう引き立てる。
けれど、その瞳に宿る光は決して柔らかではなかった。
深く澄んだ眼差しの底には、戦場を見透かし、勝敗をも計算する冷ややかな理知と自信が潜む。
微笑めば花のように美しく、目を細めれば刃のように鋭い――その二面性が、彼女のただならぬ存在感を際立たせていた。
隆景が姿を現すと同時に、彼女の背後に控えていた赤松軍と思われた軍勢もまた、幻が解けるように像を歪ませていく。
陽炎のように揺らめいたかと思えば、そこに現れたのは、毛利の家紋を染め抜いた旗――




