第七話 丹波の温泉街⑤
「まいどおおきに!」
威勢のいい店主の声が、湯気の残る夜の空気に響きわたる。
その声に背を押されるようにして、桜と善助は牛乳瓶を片手に店を出た。まだ湯上がりの体からはかすかな熱気が立ちのぼり、手にした瓶の冷たさがひときわ心地よい。
川沿いの小道には、夜風がやさしく吹き抜ける。柳の木の枝がかすかに揺れ、その細い葉が月明かりに淡く光りながら、二人の肩先をかすめた。
水面には灯籠の光がひとつ、ふたつ、ゆらゆらと揺らめきながら流れていく。
その光は川のせせらぎに合わせて小さくきらめき、まるで過ぎ去った日々の断片を映し出しているようだった。
桜は牛乳瓶を持つ手を胸のあたりに寄せ、ひと口、冷たい牛乳を口に含んだ。
その瞬間、幼いころの温泉街の記憶が、まるで川の水面から立ち上がる霧のようにふわりと胸に広がる。
家族とともに歩いた湯上がりの夜道、手にしていた冷たい瓶、足元に流れる川の音、そして笑い声。
――すべてが鮮やかによみがえり、胸の奥にじんと熱いものがこみあげた。
桜は小さく息を吐き、川面を見つめたまま、呟くように言った。
「……四百年たっても、変わらないものもあるんだね。」
善助は立ち止まり、隣にいる桜の横顔をじっと見つめた。
その瞳には、どこか彼女を案じるような、静かな優しさが宿っている。
「殿……寂しゅうございますか。」
その言葉に、桜は一瞬だけ目を見開き、善助の顔を見た。
しかしすぐに、いつもの笑顔を取り戻すように唇の端を上げ、首を小さく横に振った。
「ううん、大丈夫!今はみんながいるからね!」
善助はその笑顔にふっと目を細め、静かにうなずく。
「そうでございますか。」
その表情は、安堵するような穏やかな笑みだった。
川沿いの柳の枝が風に揺れ、さらさらと葉擦れの音が耳をくすぐる。
桜は歩きながら、ふと問いかけた。
「ねえ、善助はどうしてうちに仕えてくれてるの?」
善助は苦笑しながら少し首をかしげた。
「いつも質問が急ですね。」
桜はいたずらっぽく笑い、肩をすくめた。
「だよね。でも、ちょっと気になっちゃった。」
善助は小さく息をつき、川面へと視線を落とした。
ゆらめく灯籠の光が水に反射し、まるで彼女の過去を映しているように見える。
「私と又兵衛、友信は、幼い頃より縁あって官兵衛殿の実家、黒田家で育てていただきました。」
柳の葉がさらさらと風にそよぎ、二人の間に静かな時間が流れる。善助の瞳には、遠い昔の記憶がよぎっているようだった。
「付き合いが長いゆえ、二人のことはよく分かります。あの二人、殿の事が気に入っているようです。」
桜は思わず立ち止まり、目を丸くして善助を見上げる。
「え、そうなの?」
善助はくすくすと笑いながら、桜の横で肩をすくめた。
「ええ、それに、かくいう私も……ゴホンッ」
言いかけて、善助は一瞬言葉を詰まらせ、咳払いをした。
「……本来であれば、黒田家へのご恩のため、と答えるところでしょうが……」
そのとき、柳の葉がひとひら、桜の肩にふわりと落ちた。
桜は指先でそっと葉を拾い上げ、じっと見つめる。
その指先に、善助の静かな声が落ちていった。
「私は、あなただから仕えているのです。」
川のせせらぎの音が、二人の間に静かに流れ、まるでその言葉を包み込むようだった。
宿へ戻ると、桜たちの目に妙な光景が飛び込んできた。
部屋の真ん中で又兵衛が縄でがっちりと縛られ、横たわっている。
その後ろでは、友信がうろうろと落ち着かず、両手を宙に泳がせて右往左往していた。
「……又兵衛、どうしたの?」
桜が思わず眉をひそめ、首をかしげる。
すると、奥から涼やかな声が返ってきた。
「着替えを覗こうとしておりましたので、こうしておきました。」
淡々と告げる全登の声には、怒りよりも冷静さがにじむ。彼女の両腕は組まれ、表情は一片の揺らぎもなかった。
「い、いや、その……」
縄でぐるぐる巻きにされた又兵衛が、必死に体をよじりながら声を上げる。
「殿が全登の胸がでかいと言っていたから気になって……つい……」
その瞬間、部屋の空気がぴたりと凍った。
「……。」
桜は沈黙したまま、にっこりと笑顔を浮かべていた。だが、その額にはうっすらと青筋が浮き出ている。
(……聞いてやがったのか。)
心優しい当主である桜にしては珍しく、その笑みの奥に怒気がにじむ。
「全登ちゃん。もうしばらく、このままにしておこうか。」
静かに、しかし決して逆らえぬ声音で桜が告げる。
全登は表情を変えず、こくりと頷いた。
「はい。」
「ちょ、ちょっと待て!もう反省したって!」
必死に縄の中で身をよじる又兵衛。だが縄は容赦なく食い込み、逃れる術はない。
その光景を横で見ていた善助は、ふぅと小さくため息をつき、頭を振った。
「……まったく。どうしてこう、騒ぎを持ち込まずにはいられぬのか。」
こうして、温泉街の夜はまだまだ静まる気配を見せず、ますます賑やかに更けていった。




