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赤松天翔物語①  作者: 姫笠
第二章 西国の覇者

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第七話 丹波の温泉街⑤

「まいどおおきに!」

 威勢のいい店主の声が、湯気の残る夜の空気に響きわたる。

 その声に背を押されるようにして、桜と善助は牛乳瓶を片手に店を出た。まだ湯上がりの体からはかすかな熱気が立ちのぼり、手にした瓶の冷たさがひときわ心地よい。

 川沿いの小道には、夜風がやさしく吹き抜ける。柳の木の枝がかすかに揺れ、その細い葉が月明かりに淡く光りながら、二人の肩先をかすめた。

 水面には灯籠の光がひとつ、ふたつ、ゆらゆらと揺らめきながら流れていく。

 その光は川のせせらぎに合わせて小さくきらめき、まるで過ぎ去った日々の断片を映し出しているようだった。

 桜は牛乳瓶を持つ手を胸のあたりに寄せ、ひと口、冷たい牛乳を口に含んだ。

 その瞬間、幼いころの温泉街の記憶が、まるで川の水面から立ち上がる霧のようにふわりと胸に広がる。

 家族とともに歩いた湯上がりの夜道、手にしていた冷たい瓶、足元に流れる川の音、そして笑い声。

 ――すべてが鮮やかによみがえり、胸の奥にじんと熱いものがこみあげた。

 桜は小さく息を吐き、川面を見つめたまま、呟くように言った。

「……四百年たっても、変わらないものもあるんだね。」

 善助は立ち止まり、隣にいる桜の横顔をじっと見つめた。

 その瞳には、どこか彼女を案じるような、静かな優しさが宿っている。

「殿……寂しゅうございますか。」

 その言葉に、桜は一瞬だけ目を見開き、善助の顔を見た。

 しかしすぐに、いつもの笑顔を取り戻すように唇の端を上げ、首を小さく横に振った。

「ううん、大丈夫!今はみんながいるからね!」

 善助はその笑顔にふっと目を細め、静かにうなずく。

「そうでございますか。」

 その表情は、安堵するような穏やかな笑みだった。

 川沿いの柳の枝が風に揺れ、さらさらと葉擦れの音が耳をくすぐる。

 桜は歩きながら、ふと問いかけた。

「ねえ、善助はどうしてうちに仕えてくれてるの?」

 善助は苦笑しながら少し首をかしげた。

「いつも質問が急ですね。」

 桜はいたずらっぽく笑い、肩をすくめた。

「だよね。でも、ちょっと気になっちゃった。」

 善助は小さく息をつき、川面へと視線を落とした。

 ゆらめく灯籠の光が水に反射し、まるで彼女の過去を映しているように見える。

「私と又兵衛、友信は、幼い頃より縁あって官兵衛殿の実家、黒田家で育てていただきました。」

 柳の葉がさらさらと風にそよぎ、二人の間に静かな時間が流れる。善助の瞳には、遠い昔の記憶がよぎっているようだった。

「付き合いが長いゆえ、二人のことはよく分かります。あの二人、殿の事が気に入っているようです。」

 桜は思わず立ち止まり、目を丸くして善助を見上げる。

「え、そうなの?」

 善助はくすくすと笑いながら、桜の横で肩をすくめた。

「ええ、それに、かくいう私も……ゴホンッ」

 言いかけて、善助は一瞬言葉を詰まらせ、咳払いをした。

「……本来であれば、黒田家へのご恩のため、と答えるところでしょうが……」

 そのとき、柳の葉がひとひら、桜の肩にふわりと落ちた。

 桜は指先でそっと葉を拾い上げ、じっと見つめる。

 その指先に、善助の静かな声が落ちていった。

「私は、あなただから仕えているのです。」

 川のせせらぎの音が、二人の間に静かに流れ、まるでその言葉を包み込むようだった。


 宿へ戻ると、桜たちの目に妙な光景が飛び込んできた。

 部屋の真ん中で又兵衛が縄でがっちりと縛られ、横たわっている。

 その後ろでは、友信がうろうろと落ち着かず、両手を宙に泳がせて右往左往していた。

「……又兵衛、どうしたの?」

 桜が思わず眉をひそめ、首をかしげる。

 すると、奥から涼やかな声が返ってきた。

「着替えを覗こうとしておりましたので、こうしておきました。」

 淡々と告げる全登の声には、怒りよりも冷静さがにじむ。彼女の両腕は組まれ、表情は一片の揺らぎもなかった。

「い、いや、その……」

 縄でぐるぐる巻きにされた又兵衛が、必死に体をよじりながら声を上げる。

「殿が全登の胸がでかいと言っていたから気になって……つい……」

 その瞬間、部屋の空気がぴたりと凍った。

「……。」

 桜は沈黙したまま、にっこりと笑顔を浮かべていた。だが、その額にはうっすらと青筋が浮き出ている。




(……聞いてやがったのか。)

 心優しい当主である桜にしては珍しく、その笑みの奥に怒気がにじむ。

「全登ちゃん。もうしばらく、このままにしておこうか。」

 静かに、しかし決して逆らえぬ声音で桜が告げる。

 全登は表情を変えず、こくりと頷いた。

「はい。」

「ちょ、ちょっと待て!もう反省したって!」

 必死に縄の中で身をよじる又兵衛。だが縄は容赦なく食い込み、逃れる術はない。

 その光景を横で見ていた善助は、ふぅと小さくため息をつき、頭を振った。

「……まったく。どうしてこう、騒ぎを持ち込まずにはいられぬのか。」

 こうして、温泉街の夜はまだまだ静まる気配を見せず、ますます賑やかに更けていった。


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