第七話 丹波の温泉街④
湯気の立ちこめる中で気を取り直し、しばし身体を温めていたそのとき。ふと、湯けむりの奥にもう一つ湯殿があることに気づく。
善助の目がきらりと光った。
「殿、水風呂がありますぞ!」
言うが早いか、嬉々として善助は湯から立ち上がり、水風呂へざぶりと身を沈めた。
「くぅぅ……これぞ極楽」
桜は眉をひそめた。
「水風呂かあ……」
未来にいた頃、両親に連れられて温泉へ行った記憶がよみがえる。
どこの湯にも必ず水風呂があり、大人たちはうっとりした表情でため息をつきながら冷水に浸かっていた。
けれど桜は寒いのが大の苦手。あんな冷たいものに肩まで入って、いったい何が楽しいのか、ずっと疑問だった。
(……でも、水風呂にすらつかれないのは、当主としていかがなものか。ここは威厳を示さなきゃ……!)
桜は拳を握りしめて宣言した。
「わ、私もつかる!」
善助は満面の笑みでうなずく。
「ささ、お早く。気持ちいいですぞ」
桜は意を決して、足先を冷水に浸す。
「ひいっ……!」
思っていたよりはるかに冷たい。足先から痺れるような冷気が駆け上がり、背筋にぞわりと寒気が走る。
肩まで入れば命を落とすのではないか――そんな恐怖さえ頭をよぎった。
それでも桜は歯を食いしばり、少しずつ腰まで沈む。
「ふ、ふー……み、水風呂って……き、気持ちいいね……」
その必死な様子を見て、善助は小さくため息をつき、すっと立ち上がった。
「殿、そうではありません。」
気づけば彼女はすぐ傍に立っており、両手を桜の肩に添える。
「え?」
ドボンッ!
「ひいいいいいい!!」
桜の悲鳴が夜空へ吸い込まれ、温泉宿の山あいに木霊した。
「あ、あれ……?」
一瞬、冷たさのあまり顔をしかめ、肩をすくめて震えていた桜だったが――。
やがて、全身を包むように柔らかな感覚が広がっていく。
氷の刃のように鋭かった水の冷たさは、まるで絹の布に変わったかのようにやさしく肌をなで、体の奥にたまった熱を溶かし去っていく。
「なんか……冷たくなくなってきた。」
思わず口元がゆるみ、頬にほんのり赤みさえ差す。
「……だんだん気持ちよくなってきたかも」
その様子に、善助はふむふむと頷き、胸を張って言った。
「これが、水風呂の醍醐味です。」
桜は長年の疑問がほどけていくのを感じていた。
未来の世界で、大人たちがなぜあれほど幸せそうに水風呂につかっていたのか――ようやくその理由にたどりついた気がした。
その光景を湯気越しに見ていた全登が、くすりと笑う。
「ふふっ……桜殿、水風呂は初めてだったのですね。では、私も」
桜はぱっと顔を輝かせ、子どものように手を振った。
「全登ちゃんも早く早くー!」
促されるまま、全登はそろそろと水風呂へ足を入れる。
「……っ!」
冷たさが足先から一気に駆け上がり、全身に鳥肌が走った。
全登は心の中で悲鳴を上げる。――これは思った以上だ。
このまま肩までつかれば、きっと魂ごと凍りついてしまうに違いない。
しかし視線を向ければ、目をきらきらさせた桜と、誇らしげに腕を組む善助の姿がある。逃げ場など、ない。
全登は息を殺し、ゆっくりと腰まで水に沈めた。唇がわずかに震える。
「や、やはり気持ちがいいですね……水風呂というのは」
不自然なほど落ち着いた声。しかし次の瞬間、桜と善助の目が同時にきらりと光った。
「……!」
全登は何かを悟ったが、もう遅い。
二人はすたすたと彼女の左右へ歩み寄り、肩に手を添える。
「ちょっ、ちょっと待って――」
ドボンッ!
水飛沫が高く上がり、夜空を切り裂くような叫び声が温泉に響き渡った。
「きゃああああああああ!」
こうして、今度は全登の悲鳴が、星明かりの下にこだました。




