第六話 丹波の妖怪④
大地を揺らすような呻き声、爛々と光る目。圧倒的な存在感に押し潰されそうになりながらも、善助は必死にその挙動を観察した。
(ん……?)
一瞬、妖怪の顔面から放たれる老化の光が、屋敷の前に広がった水面に触れた。その瞬間、淡い反射が生まれ、一部の光が跳ね返るのが見えた。善助はさらに凝視する。
(あの老化の光……水に当たった時だけ、一部が反射している……。水よりも硬いはずの地面や壁では、ほとんど吸い込まれるように消えてしまうというのに……。)
額に汗が滲む。思考が一つの答えに向かっていく。
(……反射……?……もしや)
善助は仮説を立てると同時に、行動に移った。
妖怪に背を向けぬまま、そっと指先を掲げて又兵衛と友信に合図を送る。
又兵衛の瞳がすぐに細められる。
(ん?……あれは……ガキの頃、姉御がよく使っていた合図だ。)
一拍遅れて友信も気づいた。
(たしか、『そこでちょっと待て』って意味だの。)
「……時間を稼げってことだな、姉御!」
又兵衛がにやりと笑い、槍を振り上げる。
「だの!」
友信も大槍をぐっと握りしめ、意図を理解する。
二人は互いに短く視線を交わすと、同時に地を蹴った。砂利が跳ね、左右から飛び掛かる二人の武は嵐のようで、妖怪の注意が一気にそちらへと向けられた。
その刹那、善助は隙を逃さず声を低く発する。
「殿、全登殿。作戦があります。」
ごにょごにょ――。
耳元に寄せるような囁き。短いが鋭い言葉の連なりに、二人はすぐさま頷いた。
「なるほど、やってみる価値はありますね。」
全登は柔らかな笑みを浮かべながらも、その瞳は炎のように鋭く燃えている。
「全登殿、お願いします。」
「わかりました。」
返事をした全登は、剣を振りかざし、又兵衛と友信の奮闘に加わるように走り出す。白い衣が翻り、鋭い剣閃が妖怪の皮膚を裂く音が響いた。
その背後で、桜が一歩前に出る。手の中の細剣を握り直し、不安げに善助を見た。
「善助……本当にその役、私がやるの……?」
善助は桜の眼差しを真っ直ぐ受け止め、肩に手を添える。
「殿……怖いのは重々承知しています。それでも、この役を果たせるのは――今、殿しかおられません。」
「いや、怖いというか……。」
桜はかすかに唇を噛み、言葉を濁した。
だが次の瞬間、強く息を吸い込み、胸の奥の迷いを断ち切るように吐き出す。
「……そう、だよね。わかった、やってみる!」
桜は震える呼吸を整え、真っ直ぐに妖怪を見据えた。表情には決意が宿り、細剣を構えるその姿は戦場の空気を引き締める。
「では、お願いします、殿!」
善助は短く言い残し、地を蹴った。影のように素早く駆け出し、妖怪の巨眼の死角を突いて屋敷の奥へと身を滑り込ませる。荒い息を吐きながらも、その眼はある物を必死に探し続けた。
――いっとき後。
善助は荒い息を整えながら庭園へ駆け戻った。背中にはうっすらと汗がにじみ、腕には運び込んだ荷物の重みがずしりと残っている。その眼差しは迷いなく、真っすぐ桜を見据えていた。
「準備できました。殿、お願いします!」
桜は胸にぎゅっと手を当て、鼓動を静めるように一度深く息を吐く。次の瞬間、彼女は軽やかに離れの縁側へと飛び乗った。木の板が小さく軋み、その音が一同の耳に残る。
全登はそんな桜の姿を目にし、静かに頷いて合図を送る。声は出さない。ただその眼差しに「信じている」という思いを込めて。
桜もまた小さく頷き返すと、肺いっぱいに息を吸い込み、細剣をまっすぐ妖怪へ向けた。
「おい、そこのババアッ!……私が赤松家当主、赤松桜である!」
ギロッ。
突然、自身へ浴びせられた下卑た言葉と、敵の大将からの名乗り――。
妖怪の濁った眼が、ぎらぎらと赤黒く光り、桜に突き刺さった。怒りと恥辱の感情が混じり合い、巨顔全体の皺がぎちぎちと軋むように歪んでいく。
だが桜はその視線をものともせず、両掌をぴたりと耳に当てた。
「やーい!やーい!」
甲高い声が庭園に響き渡る。緊張に支配されていた空気が、唐突にふざけた色に染まった。
そして彼女はくるりと後ろを向き、裾をひるがえして腰を突き出す。
「おしりぺーんぺーん!」
「……。」
「……。」
一同、妖怪、誰もが言葉を失った。戦場に、異様な沈黙が広がる。
桜はその隙を逃さず、さらに追撃を加える。人差し指で片目の下瞼をぐいと下げ、舌を突き出す。
「あっかんべ!」
「プッ」
思わず口元を覆い、全登の肩が小さく震える。
「と、殿!別にそこまでは求めてな……!」
善助は慌てて声をあげる。
(たしかに挑発しろとは言いましたが……い、いかん!笑うな私!すぐに敵の攻撃が来るぞ!)
必死に口元を押さえ、表情を引き締める善助。
その遥か前方で妖怪の顔は瞬く間に紅潮し、醜悪な皺が歪んでいった。




