第五話 死者の願い①
「ひっ……あ、ああ……」
善助の喉が震え、声にならない息だけが漏れる。叫んで又兵衛を助けたいのに、舌が凍りつき、声帯がまるで別の生き物のものになったかのように動かない。
全登もまた、両目を大きく見開いたまま立ち尽くしていた。
普段なら神に祈るはずの彼女の唇からは、祈りの言葉ひとつ出てこない。恐怖が信仰を押しつぶしていた。
――そのとき。
後方で震えていた桜が、決意を固めたように大きく息を吸い込んだ。
そして、一歩、また一歩と女へ歩みを進める。
「……あなたのことを、聞きました。赤松幸さん。」
その声は、震えてはいたが、はっきりとした響きを持っていた。
白装束の女が、ぎぎぎ、と軋むような動きで桜へと顔を向ける。長い首が不自然に折れ曲がり、絡みつく髪の隙間から、虚ろな眼光がのぞいた。
思わず善助が声を張り上げる。
「殿!危険です!離れてください!」
だが桜は静かに善助に頷くと、臆することなくさらに女へ近づく。
「私は――赤松家現当主、赤松桜です。」
その言葉を耳にした瞬間、女の顔がぐらりと揺れた。
――揺らぐ怒りか、悲しみか、それとも……。
次の刹那。
「オオオオオオオオッ!!」
耳をつんざく咆哮が夜空に響きわたり、石垣が震えるほどの衝撃が地を伝った。
重く圧し掛かる声の波動に、全員の胸が締めつけられる。空気そのものが敵意に変わったかのように、呼吸すら困難になる。
霧が荒れ狂うように渦を巻き、月明かりさえかき消そうとしていた。
桜は胸に当てた手をぎゅっと握りしめ、震える声を必死に押さえ込んだ。
「……あなたは、戦で、裏切りで、大切な人を失った……」
一瞬の沈黙。桜は息を吸い直し、冷たい空気で胸を満たす。
「だからこそ、聞いてほしい話があります。」
白装束の女の長い首が、ぎぎ、と不自然に揺れた。空洞のような眼が桜を射抜く。だが桜は怯まず、細く震える膝を必死に踏みとどめ、その視線を受け止めた。
「私は……この時代より、ずっと先の未来から来ました」
声は震えていたが、瞳は揺らがなかった。
「そこには戦のない、平和な世界がありました。でも、ある時から歯車が狂ったように、ここで起きているのと同じように争いが始まって……人が、毎日たくさん死んでいったんです」
桜の肩が小さく震え、涙がにじんで瞳からこぼれそうになる。彼女は唇を噛み、こらえながら言葉を継いだ。
「私はその歯車を元に戻したくて、神様に祈りました。そしたら光に包まれて……気づけばこの時代にいた」
ひゅう、と夜風が吹き抜け、女の長い髪が揺れる。その黒髪が生き物のように宙を泳ぐ。
桜は一瞬、身をすくめたが、やがて小さく息を吐き、顔を上げ直した。
「最初は、この時代でどうすればいいのかわからなかった。
神様は、なぜ私を呼んだのか。何をすればいいのか……何も教えてくれない。」
寂しそうな表情を浮かべ、苦笑してみせる。
「おまけに、ここは私の知っていた世界とは何もかもが違う。
……地位や誇り、信念のために、人生や――時に命までかける。正直に言うと、今でもそういう考え方には慣れていないの」
桜の声は夜の静けさに溶け、遠くの虫の音と重なる。
「本当は戦いなんて嫌だし……人が死ぬのは、もっと嫌」
ふっと目を伏せる。長いまつ毛が頬に影を落とし、言葉を探すように沈黙が流れる。
だがやがて、ほんのりと口元が柔らかくほころんだ。
「でもね……ある時、私なんかよりずっと頭のいい、本当に神様みたいに賢い家臣が言ってくれたの。
――私がここでしたいこと、願うことこそが、神様の意思なんじゃないかって」
桜がその言葉を口にした瞬間――。夜空を覆っていた厚い雲がゆっくりと割れ、隙間から月の光が静かに差し込んだ。
その光は、冷たさを帯びながらも不思議な温もりを含んでおり、柔らかなベールとなって彼女を包み込む。
まるで天から降り注ぐ祝福の布が広がったかのように、月明かりは金色の絹のように舞い落ち、桜の姿を優しく、そして神秘的に照らし出した。
その光を帯びて立つ桜は、人の身でありながら、人ならざる存在の気配を纏っていた。
凛とした横顔、長い睫毛にかかる影、風に揺れる髪さえも、ひとつひとつが神話に描かれる女神のようで、息を呑むほどに美しかった。
善助は思わず手で目を擦り、息を呑む。
「……殿?」
全登はその光景にただ立ち尽くし、わずかに震える唇から言葉がこぼれる。
「桜殿……あなたはいったい……」
桜は静かに一歩、女へと踏み出す。
「私の願いは――戦いや争いのない、みんなが笑って暮らせる国を作ること。」
戦国の世ではあまりにも無謀な夢。
だが彼女の瞳の奥には、揺るぎなく、神秘に包まれた光が灯っている。
「だから……どうか、もう少しの間、私を信じて、見ていてくれませんか。赤松家のお姫様――」




