第六話 浦上決戦②
―姫路城、当主の間―
広間には、いつもとは異なるざわめきが満ちていた。
桜は床に座り、手札をじっと見つめる。周囲では一同がそれぞれ札を握り、真剣な表情をしていた。
「うーん……どれを引こうかな……」
桜が迷っていると、隣に座る友信が笑みを浮かべながら札を引いた。
「……あっ……ババ引いただ」
「一大事にございます!!」
勢いよく障子が開き、一人の伝令が駆け込んでくる。
場が一瞬にして静まり返った。
伝令は息を整え、低く響く声で告げた。
「備前の浦上家がこの姫路城を攻撃せんと、浦上軍1万、傘下の宇喜多軍5千、計一万五千の兵で進軍中とのこと!」
一瞬、空気が凍りついた。
手札を落とした又兵衛が勢いよく立ち上がる。
「……一万五千だあ!? こっちは五千しかいねえんだぞ!」
彼の声に緊張感が宿る。明らかに数の差がありすぎる。まともに戦えば、勝ち目はない。
「籠城しましょう、殿」
政秀が静かに進言した。
「野戦では勝ち目はありませぬ。この姫路城に立てこもり、持久戦に持ち込めば、敵もそう簡単には攻め落とせぬでしょう」
桜は思わず官兵衛の方を見た。
「……どうしよう、官兵衛?」
官兵衛は静かに目を閉じ、しばし思案する。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「野戦で迎え撃ちましょう。私に策がございます。」
その言葉に、場がざわめく。
「ほお、策とは?」
「今は申し上げられませぬ」
その言葉に、政秀の表情が険しくなる。
「貴様、よもや裏切るつもりではないだろうな」
桜は驚いて政秀の顔を見た。
「政秀、そんなひどいこと言っちゃだめだよ!官兵衛はそんなことしない!」
「……ハハッ」
政秀は小さく頭を下げる。
「……。」
官兵衛はしばし目を伏せ黙したのち、言葉を続けた。
「全軍を夢前川西側に布陣させ、背水の陣にて敵に当たっていただきたい。時を見て、私が策を実行します。」
出陣の日の前日――。
桜はひとり、誰にも告げず静かに神社へ足を運んでいた。
鳥居をくぐり、雨に洗われたように艶めく長い石畳を歩く。足元に積もった小さな葉が朝露に濡れ、踏みしめるたびにかすかな水音を立てた。木造の門を抜けた瞬間、懐かしい光景が目の前に広がる。
境内には日の光がやわらかに降り注ぎ、濃く茂った木々の葉を透かしては砂利の上にまだらな影を描き出す。枝葉の隙間からは鳥の声が響き、その音にまじって境内の隅から湧き水のせせらぎが涼やかに響いていた。中央には変わらぬ姿で本殿が佇み、まるで桜を出迎えるかのように静かにその存在を放っている。
(……四百年経っても、この風景は変わらないんだ)
桜は立ち止まり、胸に手を当ててその場を見渡した。目に映る景色は、幼い頃から知っているままの神社だった。苔むして時の重みを刻む狛犬。白く敷き詰められた砂利の参道。木々を抜けて吹き抜ける、どこか懐かしい匂いを含んだ風……すべてが変わらない。
次々と記憶が胸の奥からあふれ出す。祖父に手を引かれて参拝したこと。夏祭りの夜、両親にねだって買ってもらった甘いりんご飴。叶と一緒に初詣に来た時の、吐く息が白く凍るほど冷えた空気の感触。
現代の思い出が、この時代の神社の風景と重なり合い、胸の奥をきゅっと締めつけていく。懐かしさと切なさと、どうしようもない隔たりの感覚が、桜の心を静かに揺さぶっていた。
そしてここは――戦国時代へ来る前、最後の瞬間まで自分がいた場所でもあった。
桜はゆっくりと参道を歩み、本殿の前に立つ。
静かに両手を合わせ、目を閉じた。
「……神様。私はここで、何をすればいいのですか?」
声は小さく震え、唇からこぼれ落ちるようにして紡がれた。
「なぜ私を戦国大名の当主にしたのですか。私がこの時代で何かをすれば……本当に未来は救われるのですか?」
必死に問いかけるも、本殿は静まり返ったまま。
風が木の葉を揺らす音だけが返ってくる。答えはどこからも聞こえず、心細さが胸に広がっていった。
そのとき――。
ギィ……と、門がきしむ音がして、一人の影が境内に入ってきた。
(……浦上家家臣、宇喜多直家からの寝返りの密約の書状。このようなものを城の者に見られては……)
現れたのは官兵衛だった。
彼は手にした書状を素早く視線で確認していたが――
「……官兵衛?」
桜の声に肩をびくりと震わせ、慌てて書状を懐に押し込んだ。
「これは……殿。どうしてこんなところへ?」
いつも冷静な官兵衛にしては、わずかに動揺がにじむ声だった。
桜は目を伏せ、小さく答える。
「……うん。明日は戦になるから、不安で。気づいたら、ここに来てたの」
官兵衛は小さくうなずき、口元に落ち着いた笑みを浮かべる。
「なるほど。戦勝祈願、というわけですか」
「ま、まあ……そんなところかな」
桜は気まずそうに笑ってごまかす。
「では、私もご一緒に」
官兵衛はそう言って本殿の前に進み出ると、静かに両手を合わせ、目を閉じた。
しばしの沈黙。境内に鳥のさえずりと木々のざわめきだけが響く。
やがて官兵衛はゆっくりと目を開き、横目で桜を見やった。
桜は口を開く。
「……ここはね。私がこの時代に来る直前まで、いた場所なの」
言葉を落とすように呟くその声は、過去と現在をつなぐ細い糸のように震えていた。
官兵衛は桜の言葉を受け、目を細めた。
「……そうでございましたか。この神が、あなたをこの時代へ……」
桜は顔を伏せ、握った拳を胸の前に置く。
「でもね、神様……私をなぜこの時代につれてきたのか、この時代でなにをすればいいのか……なにも教えてくれないの」
吐き出す声はかすかに震え、幼子が迷いの中で道を探しているかのようだった。
官兵衛はその言葉を黙って受け止め、腕を組んだまま天を仰ぐように本殿を見上げた。
本殿の奥は、時が止まったかのように静まり返っている。人の気配も音も無く、そこだけが別の世界のようだった。
外に目をやれば、ゆるやかに雲が流れ、風に揺れる神前幕がさらさらと擦れ合う。清らかな音が微かに響き、まるで天と地の境を隔てる帳のように、彼らを見守っていた。
やがて官兵衛は、静かに口を開いた。
「……何百年という時の間、この神のもとには、じつに多くの人々が祈りに訪れてきました。武士も、農民も、女も子も、それぞれの考え方や価値観、抱えた願いや苦しみを持ち、ここで頭を垂れてきたのです」
桜は小さく瞬きをし、官兵衛の横顔を見つめる。
「それらは言葉に出さずとも、すべて神には伝わっている。私はそう思うのです。その上で神は……あなたを選び、この時代へと導いた」
官兵衛の声は確信に満ち、どこか静かな力を宿していた。
「殿がこれから成すこと、そして心から願うこと。きっと……それこそが神の意志、そのものでありましょう」
その瞬間、境内を包む空気がわずかに揺らいだ。
サァッと、柔らかい風が木立を抜け、桜の髪と衣をやさしく撫でていく。
桜は目を閉じ、その風を受けながら小さくつぶやいた。
「……私の願うことが、神の意志……」
そしてふと瞳を開き、まっすぐに本殿を見据える。
「明日は戦になるけど……本当は、誰も死んでほしくない……」
その言葉はあまりに素直で、戦国の世では夢想に近い願いだった。
官兵衛はその声を聞くと、口を閉ざす。
「……」
沈黙の後、穏やかな声で言った。
「ご心配なされますな。明日の戦は、早々に決着がつきましょう。双方の被害も……きっと少なく済むはずです」
桜は少し肩の力を抜き、安堵の笑みを浮かべる。
「……そっか。よかった……」
官兵衛はしばし桜を見つめていたがやがて目を伏せ、静かに一歩下がった。
「……では、私はこれにて」
「うん……ありがとう、官兵衛」
桜は小さく頷き、去っていく背中を見送った。
境内には再び静寂が戻り、ただ木々の葉が風に揺れる音だけが響いていた。




