第五話 妖怪スシイヌ③
―城の治療室―
薄明の差し込む治療室の片隅――。
桜は静かに白い子犬のような妖怪の体に手を当てていた。
その手からじんわりと温かな光が溢れ、妖怪の傷を癒してゆく。治癒の念術―桜の力が、妖怪の小さな命を確かにつなぎ止めていた。
妖怪はぐったりとした体を横たえたまま、時折か細い息をついている。だが、かすかに揺れる尻尾が、その生命の灯がまだ絶えていないことを示していた。
「大丈夫……もう怖くないよ」
桜は小さく微笑みながら、妖怪の額をそっと撫でた。
部屋の外では、一同がそっと様子をうかがっている。
「……殿様が、妖怪を治療している…?」
友信が小声で呟くと、政秀が深々とため息をつく。
皆、困惑と心配をにじませた表情で顔を見合わせていた。善助は腕を組み、少し考え込むように目を細めている。
又兵衛はというと、部屋の外に座り込んで、天井をぼんやりと見上げていた。
数日後――。
桜の献身的な治療の甲斐あって、妖怪はようやく立ち上がれるようになっていた。
まだ足取りは少しふらついているが、すっかり表情は明るく、尻尾をちぎれそうなほどに振っている。
「元気になってきたね、よかった……」
桜は妖怪の背を撫でながら、ふっと微笑んだ。だが、その目にはどこか物思いにふけったような光が宿っていた。
何かを考え込むように視線を落とし、膝の上で小さく丸まる妖怪に指を遊ばせている。
その様子を、またしても一同が遠巻きに見つめていた。
(何を言い出すつもりだあ……)
(どうか……どうか平和な提案であってくれ……)
政秀が念じるように手を合わせている隣で、友信が気まずそうに汗をぬぐっていた。
そのときだった。
桜は白い子犬のような妖怪を両腕に抱き上げたまま、くるりと振り返った。
その顔には迷いのない笑顔が浮かんでいる。
「決めた!この子を城で飼う!」
あまりにも真っ直ぐな宣言に、その場にいた一同が一斉に頭を抱えた。
「やはりか」という雰囲気が、空気を重くもなく、むしろ呆れ混じりに漂う。
政秀が額に手を当てながら、恐る恐る口を開く。
「殿……さすがに、妖怪を飼うのは、いささか問題があるかと」
しかし、桜はふくれっ面になって言い返す。
「でもね、この子を外に出したら、また妖怪に襲われるかもしれないんだよ?」
「いけません。殿。」
その時、官兵衛の低くよく通る声が、その場の空気をすっと引き締めた。
ざわめいていた家臣たちが、思わず口を閉じる。官兵衛は一歩前へ出て、まっすぐに桜を見据えた。
「妖怪は元来、人に仇なす存在。それを大名家の当主たるあなたが飼うなど……」
官兵衛の声音は静かだったが、逆らうことを許さぬ威圧があった。
「領民には妖怪に殺された者もいます。これでは示しがつかない。それに」
官兵衛は、ゆっくりと視線を巡らせる。
周囲に控える家臣たちは、誰も口を開かない。重い沈黙が落ちた。
「その妖怪が、我々家臣や領民を襲わないという保証はどこにあるのですか?」
「……。」
桜は胸に抱いた小さな白い妖怪を、そっと抱き直した。
柔らかな毛が腕に触れ、かすかに温もりが伝わる。
「少しは、当主たる自覚を持っていただきたい。」
その言葉に、桜は一度うつむき、唇をきゅっと結ぶ。
けれど、やがて顔を上げた。
「でも……この子は、人を襲う妖怪じゃないかもしれない」
官兵衛は桜を睨む。
「……なに?」
「政秀が言ってた。稀に、人に友好的な妖怪もいるって。それって、妖怪すべてが人を傷つけるわけじゃないってことだよね?」
その瞬間、官兵衛の視線が鋭く政秀へ向けられた。
政秀は肩をすくめるようにして、ばつが悪そうに視線を逸らす。
「官兵衛の言うこともわかる。危険な可能性があることも。」
桜は、腕の中の妖怪を見下ろし、そっとその頭を撫でた。
小さな妖怪は抵抗することもなく、ただ大きな瞳で桜を見上げている。
「でも、それだけで悪意のない妖怪まで見捨てるなんて事、私はできない。」
「……。」
桜と官兵衛は、言葉もなく視線を交わした。
その間に流れるのは、当主と家臣としての責任と覚悟を確かめ合うような、静かな緊張だった。
やがて桜は、小さく息をつき、ぽつりと呟く。
「……この子、いつもひとりぼっちなの。なんでか分からないけど、親も、仲間もいないみたいなの」
胸に抱かれた白い妖怪は、桜の着物に顔をうずめるようにして、じっと大人しくしている。
「かわいそうだよ……」
その言葉は、とても小さかった。
けれど、はっきりとその場にいる者の耳に届いた。
やがて一人の少年の胸の奥で、何かが静かに揺れる。
彼の視線が、桜の腕の中にいる小さな妖怪へと向く。
ふわふわの白い毛。
小さな体。
怯えるように丸くなっている姿。
又兵衛の脳裏に、遠い日の記憶がよみがえった。
――
飯屋の軒先。
昼の光が通りを照らしている。
店の前で、大きな体をした店主が腕を組み、幼い又兵衛を見下ろしていた。
「……坊主、そう毎日余りものはでねえよ」
店主は腰に手を当て、呆れたように首を振る。
言われた少年は、何も言えなかった。
まだ幼い又兵衛は、小さな肩を震わせながら、視線を足元へ落とす。
裸足の足先は土埃にまみれていた。
踏みしめる力もなく、ただ頼りなく地面の上で揺れている。
通りの向こうでは、町の女たちがひそひそと囁き合っていた。
「あら、あの子。また同じ所にいるわよ」
「お父様が亡くなったんだって。まだ幼いのに、どうするのかしら」
「引き取ってくれる親族、いなかったのかしらねえ……」
その声は、決して大きくはない。
だが、幼い又兵衛の背中には、はっきりと届いていた。
通りの端に立つ小さな少年。
誰にも手を引かれず。
誰にも声をかけられず。
ただ――
ぽつんと一人で空を見上げていた。
白い雲が、ゆっくり流れていく。
泣くこともできない。
声を上げることもできない。
ただ、黙って。
その場に立ち尽くしていた。
その時だった。
通りの向こうから、二人の武士が歩いてくる。
官兵衛と、その家臣だった。
家臣は横目で少年を見て、眉をひそめる。
「官兵衛様、なにも他家の子供を引き取らなくてもよろしいのでは……」
低く、遠慮がちな声。
だが官兵衛は、歩みを止めた。
そして。
幼い又兵衛を、じっと見つめた。
その瞳には――
憐れみと、揺るがぬ決意が宿っていた。
やがて官兵衛は、静かに言った。
「されど……」
ゆっくりと手を差し出す。
「かわいそうではないか」
その掌は、温かかった。
迷いもなく。
まっすぐに、幼い又兵衛へと差し出されていた――。
――
記憶が、ふっと途切れる。
又兵衛は、現実へと戻った。
城の部屋の中。
桜が小さな妖怪を抱きしめている。
又兵衛は鼻の頭をぽりぽりとかいた。
そして視線をそらしながら、ぶっきらぼうに呟く。
「ま……いいんじゃねーの」
その言葉に。
その場にいた全員が、同時に又兵衛を見た。
「こいつ、よええ妖怪に食われそうになってたしさ」
又兵衛は肩をすくめる。
「悪さしたくても、できねえっしょ」
両手を頭の後ろに組み、ぷいっと後ろを向く。
「もし悪さしたら――」
少しだけ振り返り、ぼそっと言った。
「そのときは俺が……きっつーくお灸をすえてやるよ」
ぶっきらぼうな言葉。
けれど、その声にはどこか温かさがあった。
しばらく黙っていた官兵衛が、ゆっくり息を吐く。
深く、大きなため息だった。
やがて官兵衛は口角をわずかに上げ、腕を組んだまま桜を見た。
「分かりました……殿。」
そして静かに言う。
「飼うと言ったからには、途中で投げ出したりなさいませぬよう。」
その言葉に、部屋の張り詰めた空気が少しだけ緩んだ。
政秀が肩をすくめる。
友信も苦笑する。
善助は目を閉じ、小さくうなずいた。
桜はぱっと顔を輝かせ、みんなを見回す。
「うん!ありがとう、又兵衛!みんな!」
その笑顔に、誰もそれ以上文句を言えなかった。
その時。
善助がふと思いついたように口を開く。
「飼うのでしたら、名前をつけてはどうでしょう?」
桜の目がきらっと輝く。
「そっか!えっと……」
しばらく考え込む。
腕の中の妖怪を見下ろす。
真っ白な体。
そして――
頭の上に乗った、卵焼きのようなもの。
桜は突然ひらめいた。
ぱっと顔を上げる。
「なんかこの子、体がお米みたいに白いし」
指で頭を指す。
「頭が卵焼きみたいで……ほら、お寿司みたいで……」
少し間。
そして元気よく宣言した。
「だから――スシイヌ!」
その瞬間。
場の空気が凍った。
沈黙。
誰も言葉を発しない。
まるで時間が止まったかのようだった。
窓の外では、雲だけがのんびり流れている。
その静寂に耐えかねたのか、友信が口を開く。
「殿様……さすがにダサ――」
言い終わる前だった。
ドスッ
善助の鋭い肘が、友信のみぞおちにめり込む。
「ぐほっ」
友信がその場で折れ曲がる。
善助が静かに言った。
「……控えよ、友信。」
桜の腕の中。
白い子犬のような妖怪――スシイヌは、満足そうに尻尾をぶんぶん振っていた。
その時。
又兵衛「それより、殿。」
桜「――え?」
又兵衛は腕を組み、にやりと笑う。
「俺に勝つまでは――」
指を桜に向ける。
「当主だなんて認めねえからなッ」
桜「えぇ……」
後ろでは、友信がまだ腹を押さえてうずくまり。
善助はやれやれとため息をついた。




