第三話 官兵衛の葛藤②
―桜達のいる播磨の国より、はるか東方―
―三河の国、長篠―
雲ひとつない空の下、草木の緑に覆われた丘陵の一角に、威容を誇る武田軍本陣が構えられていた。
戦鼓の音がどこからともなく響き、風が吹くたびに、二万の兵が掲げる赤い旗が波のようにうねる。
閃く武田家の家紋、「武田菱」がはるか西に布陣する織田軍を睨みつけていた。
その武田本陣の中央、毛氈の上にどっしりと座するは武田家当主――武田勝頼。
齢三十。若さゆえの血気盛んな眼差しは、炎を宿したように鋭く、戦場そのものを切り裂く気迫を放っている。
父・信玄亡き後、その後継として諸国に名を轟かせ、織田家の領地を破竹の勢いで侵食し続けてきた。
その両脇には、幾多の戦場を潜り抜けた歴戦の武将たちが控えていた。
彼らは「武田四天王」と称される名将達。有能な将揃いの武田家において特に精鋭、勝頼が最も信頼を置く宿将たちである。
その「武田四天王」のうち、3人がこの長篠へ集結しており、当主ー武田勝頼の此度の戦の本気度が伺い知れる。
真紅の甲冑に身を固め、眼光鋭く座しているのは山県昌景。
率いる兵までもがすべて赤一色で統一され、見る者の心胆を寒からしめる特殊部隊、通称「赤備え」を率いる猛将。
六十路を超えながら、なお武勇健在。
七十余の戦場に出て一度の傷すら負わぬという、まさしく「不死身の鬼美濃」と呼ばれた老将・馬場信春。
その沈着な眼差しは、幾多の死地を超えてきた者だけが持つ重みを宿している。
そして、鋭い計算力で軍を自在に操る内藤昌豊。
まるで己が手足のごとく兵を動かし、常に重要な局面を託されてきた智勇兼備の将。
彼の姿は、武田軍の副将に相応しい風格を放っていた。
戦場を前にした本陣に、若き当主の声が高らかに響き渡った。
「敵、織田軍など所詮は烏合の衆! 軟弱な歩兵どもがいかに集まろうとも、我ら精強なる武田騎馬軍団の敵ではなぁーーいっ!!」
その一喝に地鳴りのような鬨の声が広がり、本陣の空気は一瞬にして緊張と昂揚に包まれる。
「昌景!」
「おうっ!!」
「信春!」
「はあっ!!」
「昌豊!」
「ははっ!!」
名を呼ばれた名将たちが一斉に応じ、甲冑の鉄が擦れる音が本陣に鳴り響く。
勝頼は、片手を天へと突き上げ、怒涛の如き声で続けた。
「そなたら武田四天王の名を聞けば、敵兵どもは恐れおののき、戦わずして背を見せるであろう!
いざ、おのおのが騎馬隊を率い、あの軟弱なる織田軍を蹴散らしてまいれっ!!」
「おおうっ!!」
轟く三人の咆哮は、まるで大地を震わせるかのごとく響き渡った。
その瞬間、武田騎馬軍団の誇りと凶暴さが、戦場に解き放たれようとしていた――。
ゴゴゴゴゴゴ――
大地を震わせる轟音とともに、武田騎馬軍団が一斉に突撃を開始した。
蹄が大地を叩く音は、まるで地鳴りのように戦場全体を揺るがし、砂塵が巻き上がって空を覆う。
「すすめえっ!すすめえーッ!!」
真紅の甲冑を煌めかせ、山県昌景が先陣を切る。
武田家の誇る精鋭中の精鋭、「赤備え」の兵たちが怒涛の如く押し寄せ、織田兵の列を槍と刀で容赦なく突き崩していった。
「ぐわあっ!」
「ぎゃあっ!」
ザシュッ ブシュッ――。
甲冑ごと肉を断つ刃の音と、血飛沫が戦場を赤く染める。
「ハッハッハッ!!誰かこの“不死身の鬼美濃”を止めてみよっ!!」
馬場信春が豪快に笑いながら刀を振るう。
その老体からは想像もつかぬ力強さで、斬撃を浴びた織田兵たちは呻き声を残して次々と地に沈んだ。
ドドドドド――ッ!
一方、内藤昌豊は冷静に戦場を見据え、的確に指示を飛ばしていた。
その采配に従い騎馬隊が巧みに左右から回り込み、織田兵の群れを挟み撃ちにする。
逃げ場を失った織田兵たちは、なす術もなく討ち取られていった。
「ん……?」
昌景の鋭い眼が遠方に異様なものを捉える。
逃げ惑う織田兵のさらに奥――。
そこには深い堀が掘られ、さらにその向こうに木で編まれた高い柵が立ち並んでいた。
「ふん……付け焼刃の柵などで、我ら騎馬隊を防げるものか!」
馬場信春が鼻で笑い、刀を振り上げる。
「柵を踏み倒すぞ!それっ!かかれえぇ!!」
怒涛の勢いで柵へ殺到する騎馬隊。
だが――
ガチャッ ガチャッ!
突如、柵の向こうから無数の銃口が一斉に突き出された。
その背後には整然と並ぶ鉄砲隊。火縄の炎が妖しく揺らめき、照準はすべて武田騎馬隊へ。
「むっ、むうっ!」
昌景が声を漏らす間もなく――
ババババババババ――ン!!
轟く銃声。
雷鳴のごとき連射が大地を揺らし、突進していた武田騎馬兵たちは次々と悲鳴を上げ、鮮血を撒き散らしながら馬上から転げ落ちていった。
「ぬうっ……鉄砲隊か……!」
内藤昌豊が唸り、即座に声を張り上げる。
「鉄砲など弾込めに時を要する!戦で役に立つものか! 次の装填の前に押し崩せッ!!」
「オオオーッ!!」
武田騎馬軍団が再び雄叫びをあげ、血煙を突き破って前進する。
だが――
チャキッ チャキッ……。
すでに次の鉄砲隊が柵の後方から入れ替わり、火縄を掲げて待ち構えていた。
休む間もなく狙いを定められ、瞬く間に再び火蓋が切られる。
ババババババーーン!!
二の矢、三の矢と絶え間なく重なる銃声。
雷鳴のような轟きが戦場を震わせ、武田騎馬兵たちは次々と撃ち抜かれていった。
誇り高き甲冑は容赦なく貫かれ、重々しい音を立てて大地へ叩きつけられる。
赤黒い血潮が土煙と混じり、戦場は地獄の淵と化していく。
――戦場を覆うのは、かつて誰も想像すらしなかった連続射撃の嵐。
武士の矜持も、伝統の騎馬戦術も、その前には粉砕されていった。




