第二話 槍の妖怪―槍幻①
「おにいちゃん、また槍の練習ー?」
庭の端で竹槍を振り回していた幼い又兵衛に、妹・志乃が小さな手を腰に当てて声をかける。
「ふんっ! ふんっ! ……邪魔すんなよ、志乃。俺はな、天下一の槍使いになるんだからよ!」
額から汗を滴らせながら、竹槍を振るう腕に力を込める。まだ少年の体は細く頼りないが、目の奥には燃えるような闘志があった。
「つまんなーい、遊ぼうよー」
志乃は頬をふくらませ、草の上にぺたんと座り込む。彼女の手には摘んだ野花がいくつも握られていた。
「はっはっは! 志乃! せっかく又兵衛がやる気なのだから、邪魔するでない。どれ、父ちゃんが遊んでやろう!」
家の中から現れたのは、日焼けした頬に笑い皺の刻まれた父。手拭いで汗をぬぐいながら、豪快に笑う。
「えー、父ちゃん臭いからやだ」
「なっ……!」
父が肩を落とすと、縁側で糸を紡いでいた母がくすりと笑った。
庭には晩夏の柔らかな風が流れ、竹の葉がさらさらと音を立てる。
後藤家の小さな屋敷には、穏やかな時間が満ちていた。
志乃の笑い声、又兵衛の息づかい、父母の会話――それらすべてが、幸福という名の光景の一部だった。
――その夜。
又兵衛はふと目を覚ました。胸の奥がざわめく。
耳を澄ますと、屋敷の一角から荒々しい音が響いている。
怒号。何かが倒れる音。
ただならぬ気配に、幼い心が凍りつく。
寝間着のまま起き上がり、壁に立てかけていた練習用の槍を手に取る。
小さな掌が柄を握りしめ、震えていた。
(……父ちゃん? 母ちゃん?)
胸騒ぎのまま声のする方へ向かう。廊下には灯がなく、障子の向こうから赤い光がちらついていた。
足音を忍ばせながら進み、両親の寝室の襖に手をかける。
――ガラガラ。
開いた瞬間、鼻を突く鉄の匂い。
部屋の中は、真っ赤に染まっていた。
畳には母と志乃が倒れている。
母の手は志乃を庇うように伸ばされ、その指先が小刻みに震えていた。
唇から血が流れ、うめくように声を漏らす。
部屋の中央では、父が槍を構え、何かと対峙していた。
その“何か”――
二メートルはあろうかという異形の大男。
血走った目、荒れ狂う息。
長い黒髪が背で暴れ、槍の穂先が月光を受けて妖しく光る。
その肌はどす黒い紫。人のものではない。鬼――いや、それ以上の何か。
父の声が、震えを押し殺して響く。
「又兵衛! 逃げろ! 逃げるのだ! どこか遠くへ!」
「あ……あ……ッ」
又兵衛は言葉を失い、倒れた母と妹を見つめる。
血で濡れた畳の上、志乃の小さな手が父を求めるように動く。
まだ、息がある。
「……こいつが、こんなひでぇことを……」
喉の奥から怒りがこみ上げた。
涙で視界が滲む中、又兵衛は槍を構え、足を踏み込む。
「うおおおおおっ!!」
床を蹴り、一直線に大男へと突進する。
――ドンッ!!
父の横をすり抜けようとしたその瞬間、鋭い衝撃が腹を貫いた。
何が起きたのか理解するより早く、小さな体が宙を舞い、襖に叩きつけられる。
鈍い音とともに視界が揺れる。
「っ……ぐ……」
息ができない。父の足が自分を蹴り飛ばしたのだと気づくのに、少し時間がかかった。
「ばかやろうっ!! さっさと逃げろ!! 言うことを聞け!!」
怒鳴り声が、夜気を裂いた。
それは普段、厳しくも優しい、どんな時も穏やかだった父の声ではなかった。
守るための叫び――その意味を、幼い又兵衛はまだ理解できなかった。
――
「……」
又兵衛は粗く息を吐き、布団の中で小さく目を開けた。夢の残滓が頭の奥でざわつく。
何度も繰り返された幼い日の光景――母と志乃、血に濡れた畳、父の叫び――その断片が胸を締めつける。
彼はゆっくりと座り、手のひらで額の汗を拭った。夜の闇は冷たく、屋敷の外で虫の声だけが規則正しく鳴っている。
翌朝、赤松家の家臣達は当主の間に集まった。
燭台の光が障子から差し込む薄暗がりの中、各人は表情を引き締め、集落からの報告書を前にしていた。
官兵衛が慎重に言葉を選ぶように切り出す。
「……今朝、別所家より要請があった。最近、領内で妖怪が暴れておると。」
桜は目を細め、呼吸を整える。
「妖怪……」と短く漏らした声には、恐怖と警戒が混じっている。
官兵衛は続きを告げる。
「かなり手ごわいらしい。人のような外見をし、知性がある。まるで槍を幻のように使い、槍幻という名がついたそうだ。」
その『槍』という単語が又兵衛の肩に電を走らせる。
胸の奥で眠る古い傷口が、まるで冷たい刃でこそげ取られるように疼いた。
「一度大規模な討伐隊を編成したが、他の妖怪同様、多勢に無勢と見るや闇に紛れて姿を消してしまうらしい。
故に少数の武勇の士を派遣し、討伐に協力してほしいとのことだ。」
場の空気が一層重くなる。善助は顎に手を当て、険しい表情で目を細める。友信はひとしきり咳払いをしてから、低い声で反応する。
そのとき、又兵衛が静かに声を出した。
「官兵衛――」
官兵衛は目を閉じ、ゆっくりと問い返す。
「……なんだ」
又兵衛の口調は震えながらも鋭い。
「その妖怪の見た目は、長い黒髪の大男か?」
官兵衛は黙って頷く。言葉は沈んだ重さを伴って戻ってきた。
「……そうだ。特徴から見るに、お前の家を襲った妖怪である可能性が高い。」
その瞬間、又兵衛の目に火が灯る。顔面が熱を帯び、血の色が差すように瞳が赤く染まったように見えた。
官兵衛は事情を説明しつつも冷静に戦術の選択肢を並べる。
「大勢で押し寄せれば、戦わずして逃走する恐れがある。ここは少数精鋭での編成が望ましい。」
静寂の切れ目に又兵衛の声が凍りつくように響いた。
「……俺に一人で行かせてくれ。」
その言葉に、場内がざわめいた。
「馬鹿を言うな!」
善助が声を荒げた。その声には不安の色が濃い。
「又兵衛……! 一人は危ないだよ!」友信も思わず続ける。
官兵衛が冷たくも厳正に問いただす。
「この中で槍幻を見たのはお前だけだ。勝算はあるのか?」
又兵衛は一瞬の沈黙の後、喉を絞り出すように言い切る。
「俺が必ず倒してやる。何があっても……八つ裂きにしてやる。」
その気迫は凄まじく、場に居合わせた者たちの呼吸を止めた。官兵衛はしばし言葉を失い、次の策を練るように視線を床に落とす。
「私も行く。」
突如、桜の凛とした声が響いた。
場に再び波紋が走る。又兵衛の顔が驚きで引きつる。
「なっ……!殿、俺の話を聞いてなかったのかよ!」
桜は首を振り、言葉を繋ぐ。
「戦いに参加するつもりはないよ。ただ、又兵衛が妖怪を倒した後、治療が必要ならすぐに手当てをしたい。だから、近くまでは一緒に行く。」
又兵衛は食い下がる。
「だめだ! 巻き込まれたら危ないだろ!」
桜は一歩前に出て、瞳に真剣さを宿らせる。声には柔らかさがあっても、揺るがぬ決意があった。
「又兵衛だって危ないよ。敵がどれぐらい強いかもわからないのに、一人で行くなんて、どうかしてる。」
「ぐっ……」
「……あなたが心配なんだよ。だから、お願い。」
官兵衛も続けた。
「先の、丹波の妖怪との戦いの様子は聞いている。今回の妖怪も能力によっては、殿の念術が無ければ些細な傷が致命傷になりかねん。」
官兵衛は桜に向かって軽く頷き、静かに言った。
「殿、又兵衛をお願いします。」
桜は大きく頷く。
「うん、わかった。」
又兵衛もそれ以上は何も言えなかった。




