第十一話 終戦③
山陰地方―。
戦場を覆う熱気と血の匂いの中、吉川元春は滝のように汗を流し、肩を荒く上下させていた。
その巨躯はなお揺るぎなく立っていたが、息は深く、鎧の隙間から湯気が立ち上っている。
対する善助、友信、又兵衛も、荒い息を吐きながら必死に立っていた。
善助は刀を杖のように支え、肩で大きく息をし、額の血を拭うこともできない。
友信は大槍に体を預けるようにしながらも、なお元春を睨み据えていた。
そして又兵衛は、荒く息を吐きながらも、今にも飛びかからんと獣のように身を低くしている。
そこへ、戦場の土煙を蹴立てながら伝令が駆け込んできた。
乱れた息のまま元春の前に膝をつき、耳元で早口に報告する。
元春の顔がわずかに動き、その低い声がもれる。
「……隆景が、敗れたか。」
一瞬だけ瞳に哀しげな影を浮かべ、しかしすぐに槍を脇へ構え直すと、背後に控える供回りに静かに告げた。
「……撤収するぞ。」
その背を見た又兵衛が、血走った目で叫んだ。
「やい! 待ちやがれ、てめえ!」
元春は振り返り、ただ一瞥をくれる。
又兵衛は荒く息を吐きながらも、一歩踏み出して吠えた。
「戦いはまだ終わっちゃいねえ!」
その声には若さゆえの激情が宿り、善助と友信にまで突き刺さる。
しかし、二人の体はすでに限界だった。
刀や槍に体をあずけ、立っているのがやっとの状態。
「くっ……! てめえ! 俺と一騎打ちしやがれッ!」
又兵衛の瞳は炎のように燃えていた。
元春は黙して応えず。
それに業を煮やした又兵衛が、ついに大地を蹴って飛び出した。
「でやああああーッ!!」
若獅子の咆哮が戦場に響いた瞬間――善助がその前に立ちはだかった。
動かぬ腕で必死に又兵衛を押さえ込み、背で衝撃を受け止める。
「待て、又兵衛!」
「姉御ッ! 邪魔すんな! 三人がかりで倒せねえなんて、こんな屈辱はねえんだよ!!」
必死に吠える又兵衛の叫びを、善助は鋭く叩き潰す。
「私たちの役目は、吉川元春の足止めだ! 差し違える事ではない!!」
又兵衛の顔に苦渋が走り、奥歯を噛み締める。
その様を見ていた元春は、ふと若き日の自分を思い出す。
無鉄砲に突き進み、兄を心配させ続けた己の姿を――。
「……猪武者よ。」
静かに口を開いた元春の声に、又兵衛が目を見開く。
「年長者を、あまり困らせるでない。」
「な、なんだと……!」
「望むなら、いずれまた勝負してやろう。それまで、鍛錬を怠るなよ。」
その言葉は、叱責ではなく諭すように響いた。
又兵衛は悔しげに唇を震わせ、拳を握る。
「ぐっ……くっ……!」
元春はそれ以上言葉を費やさず、鋭く号令を放った。
「撤退じゃ! 引けい!!」
その声を合図に、吉川隊の兵たちは一糸乱れず動き出す。
足並みを揃え、秩序を保ちながら、一斉に戦場を後にした。
赤松軍の面々が立ち尽くす中、その背に漂うのは敗残の色ではなく、なお重々しい威容だった。
瀬戸内海沿岸――小さな漁村。
「……ハッ」
全登はまぶたを開けた。
最後に覚えているのは、武吉との死闘の果て、船上で意識が遠のいた瞬間――。
目に映ったのは、古びた木の梁と、潮と煙の混じった匂い。
体をかすかに動かすと、藁敷きの布団がきしむ音がした。
隣では、漁民と思しき夫婦が不安げな顔をしてのぞき込んでいる。
「全登様、傷が深ぇだ。まだ起き上がらんほうがいい」
胸に手を当てると、布が幾重にも巻かれ、血はすでに止まっていた。
どうやら応急処置を受けているらしい。
「……あなた方が手当をしてくださったのですね。ありがとうございます」
「めっそうもありません!それより……おらたちを海賊から守ってくださり、ありがとうございました。」
「……そうだ、なぜ私はここに……海賊達は!?」
漁民の男は少し声をひそめた。
「手に大鎌を持った大男が、全登様をここまで運んできたんです。ひい……おっかねえ見た目でした。」
漁民の男は大男の表情を思い出し、震えながら続けた。
「その男がこう言ったんです。『こいつが海賊からこの村を守った。手当をしてやれ』って」
(あの男……アイアン・メイデンの無数の針から急所を守っていたのか……。)
やはりあの男は只者ではない……。全登の胸の奥に、鈍く重たい感覚が広がる。
(でもなぜ私に情けを……。)
漁民の男は、そんな全登の変化に気づかぬまま、言葉を続ける。
「……帰り際に、全登様に伝言しろと――そう言われました」
全登は、顔をわずかに上げる。
「……伝言?」
「『最後に立っていたのは俺だ。だから俺の勝ちだ』って」
「……ムスッ」
――海賊船、甲板。
「おかしら、何も敵将なんて助けなくてもよかったんじゃ」
「毛利軍は既に撤退した。これじゃ略奪もできねぇ。俺は無益な殺生はしない主義なんだよ。」
口元をわずかに緩めて、武吉はぽつりと付け加えた。
「……それにしても、かなり美人だったな、あの嬢ちゃん。連れて帰りゃよかったぜ」
――漁民の家。
……ブルッ
背筋を走る悪寒を感じ、全登は思わず肩をすくめる。
「大丈夫ですか、全登様!? やっぱりまだ具合が……」
「い、いえ……大丈夫です」
赤松家本陣―。
本陣では、毛利軍本隊の撤退後も混乱と慌ただしさが続いていた。
兵たちの呻き声、治療のために走る足音、血の匂いと焦げた草の臭気が入り混じり、戦場の余韻がなお漂っている。
「桜様!こちらにも傷の深い者が!」
「わかった!すぐに行くから、布で止血しておいて!」
桜は立ち上がろうとするが、疲労で足がもつれ、兵に支えられて歩みを進めた。
その姿は気力で立っているにすぎず、衣の袖は血に染まり、細い四肢にも小さな切り傷がいくつも刻まれていた。
別所長治はその背を見送りながら、声を張る。
「別所兵も赤松兵の手当に回ってやれ!」
そう命じたあと、鼻を鳴らしつつも小さく呟く。
「まったく……世話の焼ける姫様だ……ん?」
ふと視線を巡らせると、戦場の隅で腰を支えうずくまる男の姿が目に入った。
山名祐豊――年老いた当主は、刀を杖代わりにしながら顔をしかめている。
「あいたたた……腰が……」
長治は肩をすくめ、苦笑混じりに言葉をかけた。
「歳なのに、ちと頑張りすぎですぞ、祐豊殿」
そこへ官兵衛と政秀が手勢を率いて駆け込んできた。
「殿……! よくぞ……ご無事で……! うう……」
政秀は言葉の途中で堪えきれず、涙をにじませ、声を震わせた。
その横で官兵衛も桜の顔を見つめ、小さく息を漏らした。彼の目には安堵と信頼の色が滲んでいる。
「お見事です……殿。よくぞ援軍到着まで本陣を守って下さいました。」
「あ、官兵衛……それに政秀も。……よかった……本当に……」
安堵に包まれた桜の声は小さく、震えていた。
その瞬間、これまで必死に張り詰めていた糸が切れたかのように、彼女の体は力なく崩れ落ちる。
官兵衛と政秀が慌てて支えに回った。
「あとは念術師たちにまかせて、お休みください。」
官兵衛の声に安心し、桜の瞳がゆっくりと閉じていく。
戦いの余韻の中、兵たちは彼女の姿を守るように円陣を作り、跪いた。




