第十一話 終戦②
毛利軍本隊と交戦を続ける、赤松軍本隊。
その後方では、白い装束に身を包んだ女性―紫苑が負傷者達の間を必死に駆け回っていた。
「重傷者を先にッ! 止血が済んだら次へ行ってッ!」
紫苑の声は、若いながらもはっきりと戦場に響く。
周囲の見習い念術師たちは、その指示に即座に反応し、うなずき合いながら動いた。
念術治療院の門下生で編成された、専門部隊。
わずか十数名ながら、その存在は重傷者たちの命を確実につなぎとめていた。
その前線では、毛利兵と赤松兵の戦闘はなおも続いている。
しかし、赤松兵の声は次第に掠れ、鬨の声はか細く小さくなっていった。
輝元の瞳が鋭く光り、冷ややかな声が響く。
「――第八陣、かかれ!」
「オオオオオオ!」
雄叫びとともに、新手の毛利兵が押し寄せる。
槍の穂先が光を浴びて一斉に揺れ、戦場は黒き波のごとく押し寄せる敵に覆われていった。
「はあ……はあ……はあ……」
桜の肩は大きく上下し、息は荒い。
周囲の兵も同じだ。
「うう……ぐ……」
赤松兵たちは疲弊し、地に膝をつきながらも必死に槍を構える。
だが、その腕は震え、刃は今にも取り落としそうに揺れていた。
もはや武器を支えることだけで精一杯――攻撃する余力など残されてはいなかった。
それを見届けた隆景は、戦況を掌握した確信とともに口元をわずかにゆるめる。
「……頃合いじゃな」
それを聞いた輝元は大きく頷き、兵たちに号令をかける。
「総攻撃の準備をせよ!」
その一言で、休息を終えた残り九つの陣が動き出す。
十もの軍勢が鬨の声を張り上げ、津波のごとき圧力をもって桜たちの本陣へ迫ってきた――。
勝利を確信した隆景の口角が僅かに上がる。
(わが1万の精鋭をわずか1千で止めるとは……その並はずれた統率力、必ずや歴史に名を刻むであろう。
若き姫将よ……ここで心置きなく散るがよい)
その時――
「オオオオオオオッ!!」
突如、赤松家本陣の背後から大地を揺らす轟音と土煙が巻き上がった。
新たな鬨の声が戦場を覆い尽くす。
「な、なんだ!?」
毛利兵の列に動揺が走る。
砂塵を割って現れたのは、鎧冑をまとった兵の大軍――。
彼らは桜や赤松兵を追い越し、一直線に毛利軍へと突撃していった。
閃く旗指物に描かれていたのは――山名家、そして別所家の家紋―。
戦場を震わせる大軍の中心に、二人の大将が並び立つ。
馬上から堂々と桜へ歩み寄り、その声を響かせた。
「――助けにまいりましたぞ!桜殿!」
声を張り上げて現れたのは、山名家当主――山名祐豊。
髪は乱れ、白髪混じりの髭は手入れもされず伸び放題。鎧の継ぎ目には錆が浮き、衣はところどころ継ぎを当てている。
その背中は少し曲がり、歩みは重く、長年の戦場の疲れと老いが色濃く滲んでいた。
だが――その目だけは違った。
老い衰えた肉体に反し、瞳の奥には熱がこもり、桜を救わんとする使命感に燃えていた。
「山名さん……!」
桜の瞳に光が戻る。
その横で、若き別所家当主―別所長治が鼻で笑った。
まだ十代に過ぎぬ若武者。
しかしその目は凛々しく、烈火のごとき覇気を帯びている。
整えられた前髪は真っ直ぐに額で割れ、細身の体躯ながら鎧の下には鍛え抜かれた筋肉を覗かせる。彼は胸を堂々と張って桜の前に立った。
「フンッ……桜殿、なんと無様な。あの時、我をひっぱたいた威勢はどこへ行ったのだ?」
「長治くん……!」
思わず口にした桜の呼び方に、長治は眉をひそめる。
「“くん”はよせ。」
祐豊が高らかに叫ぶ。
「妖怪から救ってもらった御恩を、今ここで返すのだ! 毛利兵を押し返せ!」
「おおおおおお!」
山名兵が一斉に応じる。
別所長治も刀を掲げ、凛と声を放つ。
「赤松兵に後れを取ることは断じて許さん! 我に続け!」
「うおおおおお!」
別所兵が猛然と突撃し、その勢いは赤松兵の胸にも再び火を灯した――。
伝令が陣幕を押し開けるようにして駆け込み、土埃にまみれた顔で声を張り上げた。
「敵の援軍、山名軍三千! 同じく別所軍三千! わが軍と交戦を開始いたしました!」
場の空気が一瞬にして張りつめる。
兵たちの息遣いが荒くなり、鎧の鳴る音さえ耳に刺さるように響いた。
「ぬう……」
隆景の白い頬に、はじめて迷いの影が差した。
彼女の目は鋭く前線を走り、瞬時に敵味方の布陣を思い描く。
「本陣の制圧、間に合わなんだか……」
その声は低く、しかし確かな重みを帯びていた。
(援軍の到着が早すぎる……官兵衛め、いつからここを主戦場と定め、準備しておった……)
隆景の眼差しが細められ、わずかに陰りを帯びる。
いつもなら一歩先を読む冷徹な光を宿すその瞳に、今ははっきりと出し抜かれた悔しさが滲んでいた。
毛利軍一万に対し、敵は援軍合わせ七千。
確かに数ではまだ上回っている。だが、一度崩しかけた相手に、再び勢いを与えてしまった。
さらに時をかければいずれ、小早川隊を退けた宇喜多本隊が後方から現れるはずである。
隆景は長い睫毛を伏せ、静かに目を閉じた。
胸の奥で激しくせめぎ合う計算と感情を、ただ一瞬で鎮める。
(……これ以上のごり押しは、無益か。)
やがて彼女は決断の色を帯びた瞳を開き、甥の輝元に向き直った。
「ここらが潮時じゃな、輝元。」
隆景の言葉は落ち着いていたが、そこに込められた覚悟を敏感に感じ取り、輝元は息を呑む。
若い当主は拳を握りしめ、唇をかみしめた。
(……まさか、叔母上が敗れるなんて……)
それでも、彼は当主として声を張り上げる。
「撤退じゃ――ひけい!ひけーいッ!!」
その号令と同時に、山々に低く重い法螺貝の音が鳴り渡った。
響き渡るその音色は、兵を前へ駆り立てるものではなく、退却を告げる無念の合図。
陣幕の外では、毛利兵たちが次々と合図に従い、乱れぬよう必死に陣形を組み直し始めた。
やがて毛利兵たちは一斉に武器を収め、乱れることなく後方へと退いていく。
大地を揺らす足音とともに、土煙が天を覆い、敵の大軍はみるみる戦場の彼方へと遠ざかっていった。
「……はあ、はあ……」
荒い息を繰り返しながら、桜はその光景を目に焼きつける。
「……敵が……引いていく……!」
その瞬間、どよめきは歓声に変わった。
「見ろ! 敵が退いていくぞ!」
「我らの勝ちだ――!」
「エイッ! エイッ! オーッ!」
「エイッ! エイッ! オーッ!」
轟く勝鬨が戦場を揺さぶり、天へと響き渡る。
槍を掲げる兵、兜を打ち鳴らす兵、互いに肩を叩き合い歓喜に酔う兵――。
その声に包まれながら、桜はようやく土の上に膝をついた。
全身から力が抜け、細剣を握る手は小刻みに震えていた。
胸の奥に、ようやくひとつの実感が芽生える。
――生き延びたのだ、と。
桜は汗に濡れた頬をそっと拭い、嗚咽をこらえるように小さく息を吐いた。
その姿を見つめる兵たちの眼差しには、敗北の淵から立ち上がった姫将の勇姿が深く刻まれていた。




