第十一話 終戦①
元春は一人、机に向かっていた。
灯明のゆらめく明かりに照らされ、机の上には積み重なった政の書状や兵法書が乱雑に広がっている。幾度も目を通したであろう紙には、端がすり減り、墨の跡が滲んでいた。周囲の畳の上にも同じように、山のように書物が置かれている。部屋は静けさよりも、むしろ文字の重みに押しつぶされそうな気配に満ちていた。
「兄上……さすがに少し休んでください。」
障子の向こうからそっと声がかかる。
「隆景か……。」
振り返った元春は、目の下に濃い影を宿していた。それでも口元には微笑を浮かべ、いつもの豪胆な兄の顔を取り戻している。
「兄貴が死んだ以上、俺がこの毛利家を支えねばならぬ。そのためには、やらねばならぬことが山ほどあるのだ。」
彼はそう言うと、疲労を隠すように肩を張り、にっこりと笑ってみせた。
「心配するな、隆景。俺はもう、猪武者などではない。」
その笑顔は頼もしく見える一方で、どこか痛々しくもあった。
隆景は一瞬、言葉を失い、唇をかすかに噛む。
「……。」
それ以上は何も言えず、静かに一礼して部屋を後にした。廊下を歩きながら、ふと拳を握りしめる。
(兄上にばかり負担をかけられない……私ももっと、兵法を学ばねば……)
その思いを胸に、自身の机に向かうと、書物を手に取り、無言のまま頁をめくり始めた。
――
やがて隆景の視界は戦場へと移る。
毛利軍本隊の本陣では、鎧の擦れ合う音、伝令の駆け足、血と汗の混じる匂いが充満し、息苦しいほどの熱気が渦巻いていた。
「赤松領での反乱は失敗……村上水軍も、いまだ宇喜多領へ侵入できず、か。」
矢継ぎ早に飛び込んでくる報告を受け、隆景は短く頷く。声色は落ち着いていたが、その瞳の奥には計算を切り替える冷徹な光が宿っていた。さらに伝令が駆け込んでくる。
「報告!宇喜多本隊を足止めしていた小早川隊、敗走!宇喜多本隊がこちらへ進軍を開始したとのこと!」
隆景は伝令の報告を聞き流しつつ、赤松家本陣に目線を移す。
「……あまり時は掛けられぬな」
本陣の外では、依然として毛利軍本隊と赤松家本隊の激しい衝突が続いている。
――異常な士気。
数では圧倒しているはずの毛利軍が、じりじりと押され、次々と損害を重ねていた。
戦場の中心に立つ赤松桜の姿を見た兵たちは、まるで炎に吸い寄せられるように声を張り上げ、血走った目で突撃を繰り返す。桜を中心に広がる鬨の声と熱気は、敵味方の区別なく、戦場そのものを赤く染めていく炎の渦であった。
「いかに各地の戦線が手こずろうとも――」
隆景は唇の端をわずかに引き結び、低く声をもらした。戦場を見渡すその眼差しは、氷のように澄み切っている。
「この本陣にいる敵総大将、赤松桜を討ち取れば、それで勝ちじゃ。」
凛とした声音に、従者たちは無言で頷き、緊張が走る。
「……車懸をしかけるぞ、輝元。」
隣に控える若き当主・毛利輝元は、はっと顔を上げる。
「は、はいっ。叔母上」
だが、その声はどこか心許なく、視線は泳ぎがちだった。
「……」
隆景は黙り込む。じっとりとしたまなざしが輝元を射抜いた。
「……?」
首をかしげ、目をぱちぱちさせる輝元。まるで何を求められているのか分からぬ子供のよう。
「輝元……早く号令をかけぬか。」
「えっ……僕がですか?」
一瞬、陣中に妙な間が生まれる。緊張と殺気に満ちた戦場の只中だというのに、空気がわずかに緩む。思わず従者たちも目をそらした。
その瞬間、隆景は小さくため息をもらす。
「輝元……毛利家の当主はそなたじゃ。そなたが号令せずしてどうするのじゃ!」
烈火のような叱責に、輝元はびくっと背筋を伸ばした。
「はっ……申し訳ありません叔母上!」
(だって……だって、さっきまで叔母上が全部号令してたから……!)
耳まで真っ赤に染めながら慌てて声を張る。
「車懸じゃ!車懸をしかける!陣をしけ!」
号令とともに、毛利軍の兵たちが一斉に動き出す。槍が林のように揃い、甲冑が重々しく並ぶ。
わずかな間に、1万の大軍が十の大きな塊に分かれ、まるで大蛇が身をくねらせるかのように戦陣を形成していく。
山々に轟く武具の音、整列する足音――それらが重なり合い、巨大な軍勢の威圧が空気を押し潰すかのようだった。
輝元はその陣形の完成を見届けると、声を張り上げた。
「第一陣! かかれ!」
「うおおおおお!」
地を震わせる雄叫びとともに、毛利軍第一陣、千人が突撃を開始。
その奔流が、赤松兵一千と真正面から激突する。
「押し返せ! 負けるな!」
「桜様をお守りしろ!」
剣と槍が交錯し、火花が散り、血飛沫が舞う。
赤松兵も必死の形相で応じ、必死の抵抗を見せた。
――ドンッ ドンッ ドンッ
突如、戦場に太鼓の重低音が響いた。
それを合図にするかのように、毛利軍第一陣が整然と退いていく。
「な……なんだ?」
「毛利兵が引いていくぞ!?」
敵が退いたことで、前線は一瞬の静寂に包まれる。だが、誰もが息をつく暇など与えられなかった。
「第二陣! かかれ!」
再び輝元の号令が飛ぶ。直後、先ほどと同じ規模の新手の軍勢が大地を揺らして襲い掛かってきた。
「新手だ!」
「構えろ!」
赤松兵が必死に迎え撃つ。
再び空を割る剣撃の音、怒号が飛び交う。
「っ……!」
桜も必死に敵兵に細剣を振る。
ブシュッ
「うぐうっ!!」
ももを細剣で刺された毛利兵がうずくまる。
激しく切り結ぶ桜と赤松兵、毛利兵達。しかし―
ドンッ ドンッ ドンッ
だが、今度もまた太鼓が鳴り響き、毛利兵は潮が引くように退いた。
そして――
「オオオオオッ!」
再び鳴り響く毛利兵の鬨の声。
入れ替わるように、さらなる新手が怒涛のごとく押し寄せる。
「くっ……また新手だ!」
「休む暇が……!」
それは車懸の陣―。
戦列を幾重にも分け、入れ替わり立ち替わり新手を繰り出すことで、敵を休ませずに疲弊させる恐るべき戦法。
絶え間ない攻撃に赤松兵の呼吸は乱れ、槍を握る手が次第に重くなっていく。
「はあ……はあ……」
「う……く……」
汗と血で顔を濡らした兵たちの声は、次第に掠れ、足取りも鈍り始めていた――。




