第十話 毛利軍本隊―進軍開始。⑧
毛利家本拠―吉田郡山城。
当主の間にて、白布を掛けられた毛利家当主―毛利隆元の横たわる姿が、誰の目にも否応なく突きつけられる。
隆景はその場に立ちつくし、信じられないものを見つめるように目を見開く。やがて膝が震え、桜木の葉のように小さな声で息をする。
横目で元春を探す隆景の視線は、どうしようもなく頼りなげで、どこかすがるようだ。
元春は言葉を失い、胸の奥に何かが煮えたぎるのを感じる。
受け入れられぬ現実を前に、理由を探し求めるように視線が泳ぐ。
やがて彼は、抑えきれぬ怒りのまま距離を詰め、目の前の家臣の胸ぐらを掴んだ。
「貴様だ!貴様が毒をもったのであろう!」
低く絞り出す声は次第に荒れ狂い、怒声となって広間に響く。
「いや、貴様だ!貴様!先日兄貴と口論していたのを見ていた!!」
「貴様も怪しい!兄貴の側近でありながら、なぜ体調の変化を見過ごしたのだ!」
言葉の刃が容赦なく浴びせられるたび、家臣たちは震え、縮こまり、必死に床を見つめるしかなかった。誰ひとりとして反論の声を上げることはできず、ただ元春の怒号に押し潰されていく。
本来なら主君の死を悼む静謐であるべき広間は、いまや元春の荒れ狂う怒気に満ち、息苦しいほどの恐怖が支配していた。
「兄上! おちついてください!」
隆景は涙を溢れさせながら、兄の腕にしがみつく。妹としてできることなど何もないのだと自覚しながら必死に声を張る。
だが元春は震える声で叫ぶ。
「うるさい! つい先日まで兄貴はぴんぴんしておったではないか! 誰かが毒を盛ったに違いない! そうに決まっておるのだ!!」
その瞬間、どこからともなく低く遠い太鼓の音が入ってきた。最初は広間の壁を通して聞こえる、かすかな振動に過ぎなかった。だが音は瞬く間に膨らみ、元春の胸に直接響いてくる。
畳の感触が土のざらつきに変わる。白布の匂いが、鉄と汗と血の匂いへと塗り替えられていく。隆景の涙の湿り気は震える蒸気へ、広間の光は戦場の刺すような日差しへと移ろう。
自分の掴んでいた家臣の襟はいつのまにか槍の柄になり、握りしめる手に伝わる感触が変わる。
――
(これは、現実だ——)
その閃きと共に、元春の内で怒りが別の熱に置き換わる。悲しみは燃料を得て、戦う力となって戻ってくる。
元春はふいに笑った。にいっと、戦の前の獰猛な笑みだ。
「おらあッ! かかってこいやあッッ!!」
叫びと共に腰を屈め、長大な槍を高く振り上げる。ブンッ、ブンッと空気を切るたびに大地が震え、草葉が震動する。闘気は膨れ上がり、まるで空間そのものが熱を帯びて収縮するかのような錯覚を呼んだ。
その雄叫びを受けて、善助の声が静かに、しかし確かに仲間の胸に届く。
「こいつを倒さねば、私達は負ける。……行くぞ!」
善助の声に続き、又兵衛がにやりと笑みを浮かべながらうなずいた。
「おうっ!!」
そして、友信が唸るように短く吠える。
「だあっ!!」
三人はそれぞれの間合いを取った。善助は正面から、又兵衛は右方から、そして友信は左方から圧をかけるように、じりじりと元春を取り囲んでいく。
一瞬の静寂――その中で、風が草をなで、遠くで鳥が一声鳴く。
瀬戸内海。
巨大な海賊船の甲板では、なおも海賊たちと宇喜多兵が入り乱れ、金属音と怒号が飛び交っていた。
しかし、その船の先端――二つの影が沈黙している。
一方は、船縁にもたれかかり、ぐったりと意識を失った全登。
もう一方は、うつ伏せに倒れたまま動かぬ海賊衆の頭領、武吉。
周囲の兵らは、その様子を遠巻きに見やり、ついに両雄の一騎打ちは幕を閉じたかのように思っていた。
だが――
「……っ」
武吉の肩がわずかに震え、次の瞬間、重い身体を引きずるようにして上半身を起こす。
血の滲む口元から荒い息を吐き、ぐらつく膝を押さえながら、ゆっくりと立ち上がった。
むくり、とその巨躯が影を落とす。
足元に転がっていた愛用の大鎌を見つけると、武吉は迷いなくそれを拾い上げ、甲板に金属音が響いた。




