第十話 毛利軍本隊―進軍開始。⑤
瀬戸内海―。
巨大な海賊船の上では、全身を切り裂かれた全登が力尽きたように膝を折り、甲板の縁に座り込んでいた。
白い肌を伝う血がぽたり、ぽたりと落ち、濡れた板の上に赤い花を咲かせる。
視界が揺れる。喧騒が遠のき、波音だけが遠くで響いていた。微かに開いた瞳には、走馬灯のように遠い日の記憶が蘇る。
――
戦乱で身寄りをなくした幼い全登は、行くあてもなくふらふらと町を歩いていた。
長い髪は傷み、頬はこけ、唇は乾ききってひび割れている。
足は泥にまみれ、腹は空っぽ。ぼろぼろの衣に身をつつんだ姿を、町民たちが思わず振り返る。
全登は今日も生きるために、食べ物を捜した。
落ちた穀粒、虫、草……食べられるものならなんでもよかった。
やがて空が茜色に染まりはじめる。
遠くで鐘の音が鳴った。
重くも澄んだその響きが、どこか遠い祈りのように感じられた。
音に導かれるように、全登はふらふらと歩き出す。
すると、夕陽を受けて淡く光る白い壁の建物が見えてきた。
教会――。
大きな扉の前で立ち止まり、全登は小さく息を吸い込んだ。
中から流れてくる香の匂いで、胸の奥が少しだけ温かくなる。
そのとき、扉が静かに開いた。
白いベールをまとった修道女が現れ、全登を見つめて優しく微笑んだ。
「おなかがすいているのですね。……さあ、こっちへ来なさい」
その声は、春の陽だまりのように柔らかく、温もりを帯びていた。
全登はおずおずと足を踏み入れる。教会の中は、ろうそくの灯が温かく揺れ、外の冷たい空気とは別世界だった。
陽の光を浴びたステンドグラスの影が床に落ち、赤や青の模様が全登の頬を染める。
修道女はそっと木のかごを手に取り、中から焼きたてのパンを一つ取り出す。
それを両手で包むようにして差し出した。
「さあ、食べなさい」
ふわりと香ばしい香りが鼻をくすぐる。
全登の喉がひとりでに鳴った。
震える指でパンを受け取り、かじった瞬間、目からぽろぽろと涙がこぼれた。
「……あたたかい」
誰にも聞こえないほどの声でつぶやきながら、全登は夢中でパンをほおばった。
甘く、柔らかく、温かかった。
その味は、生きる意味を思い出させてくれるようだった。
修道女は何も言わず、ただ微笑みながら全登の姿を見つめていた。
やがて、腹が満たされると全登は息を整え、そっと顔を上げた。
「……この御恩は、どうすれば返せるのでしょうか」
修道女は優しく目を細め、全登の頭に手を置いた。
その手はやわらかく、母のように温かい。
「あなたはかしこい子ですね」
その言葉に、全登の胸の奥がきゅっと締めつけられる。
修道女は静かに全登の髪をなで、やさしく続けた。
「きっと、あなたは強く優しい女性になります。あなたの力で、弱き者を救ってあげてください」
全登は涙をぬぐいながら、目を瞬かせた。
修道女は微笑んで言葉を結ぶ。
「それが――神の意思なのですから」
その瞬間、教会の鐘が再び鳴り響いた。
その音は、幼い全登の胸の奥に静かに刻まれ、のちに幾度となく彼女を立ち上がらせる“祈りの音”となった。
――
海賊船の甲板上では、力なく座り込んだ全登を、武吉が悠々と見下ろしている。
勝ちを確信した武吉は、悠然と歩を進め、間合いの中央で立ち止まった。大鎌をゆっくりと高く掲げる。
「終わりだぜ、嬢ちゃん」
ブウンッ!
刃が全登の頭上めがけて振り下ろされる――
ブシュッ!
全登はとっさに身体を傾け、刃筋を逸らす。狙いを外れた大鎌は、その背へと深々と食い込んだ。
「ぐうッ……!」
「……まだ避ける力があったのか」
「ガハッ」
全登の口から、熱い潜血が滴り落ちる。肩が上下し、荒い息が喉奥から漏れた。
「……ハア……ハア……」
「今度こそ、終わりだぜ」
低く言い放つと、武吉は全登の背へ突き立てた大鎌を引き抜こうと力を込めた。
「……私には、剣以外にも武器があります」
「……なに?」
目を細める武吉を、全登は見上げ――静かに、そして柔らかく微笑んだ。
「神への信仰です」
その言葉と同時に、武吉の背後でまばゆい光が弾ける。
光は輪を描き、音もなく広がり、逃げ道を塞ぐように武吉を囲い込んだ。
「な……なんだこれは!」
必死に跳び退ろうとする――だが。
全登の手が、大鎌を握る武吉の腕をがっちりと掴んでいた。
その掌から、さらなる光が脈打つように溢れ出す。
「しまった――!」
光の念術――アイアン・メイデン。
光は一気に膨れ上がり、武吉を包み込んだまま巨大な像を形作っていく。
やがてその輪郭は鋭く冷たい威容を帯び――
虚空を見据えながら、頬を伝う涙を隠そうともしない、哀しき少女の姿となった。
それは、哀哭そのものが実体を得たかのように、空気を震わせる。
ブシュッ! ズシュッ!
「ぐあああっ!」
閉ざされた像の内部から、武吉の断続的な呻きと鈍く裂ける音が響く。
やがて前扉が開き、武吉は力を失い前のめりに倒れ込んだ。
――ドサッ
その身体には無数の穿たれた穴が刻まれ、潜血がじわじわと広がっていく。
「……はあ」
全登はそれを見届け、船縁にもたれ、肩で息をした。




