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赤松天翔物語①  作者: 姫笠
第二章 西国の覇者

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第十話 毛利軍本隊―進軍開始。⑤

瀬戸内海―。

巨大な海賊船の上では、全身を切り裂かれた全登が力尽きたように膝を折り、甲板の縁に座り込んでいた。

 白い肌を伝う血がぽたり、ぽたりと落ち、濡れた板の上に赤い花を咲かせる。

視界が揺れる。喧騒が遠のき、波音だけが遠くで響いていた。微かに開いた瞳には、走馬灯のように遠い日の記憶が蘇る。


――


 戦乱で身寄りをなくした幼い全登は、行くあてもなくふらふらと町を歩いていた。

 長い髪は傷み、頬はこけ、唇は乾ききってひび割れている。

 足は泥にまみれ、腹は空っぽ。ぼろぼろの衣に身をつつんだ姿を、町民たちが思わず振り返る。

 全登は今日も生きるために、食べ物を捜した。

 落ちた穀粒、虫、草……食べられるものならなんでもよかった。


 やがて空が茜色に染まりはじめる。

 遠くで鐘の音が鳴った。

 重くも澄んだその響きが、どこか遠い祈りのように感じられた。

 音に導かれるように、全登はふらふらと歩き出す。

 すると、夕陽を受けて淡く光る白い壁の建物が見えてきた。

 教会――。

 大きな扉の前で立ち止まり、全登は小さく息を吸い込んだ。

 中から流れてくる香の匂いで、胸の奥が少しだけ温かくなる。

 そのとき、扉が静かに開いた。

 白いベールをまとった修道女が現れ、全登を見つめて優しく微笑んだ。

「おなかがすいているのですね。……さあ、こっちへ来なさい」

 その声は、春の陽だまりのように柔らかく、温もりを帯びていた。

 全登はおずおずと足を踏み入れる。教会の中は、ろうそくの灯が温かく揺れ、外の冷たい空気とは別世界だった。

 陽の光を浴びたステンドグラスの影が床に落ち、赤や青の模様が全登の頬を染める。

 修道女はそっと木のかごを手に取り、中から焼きたてのパンを一つ取り出す。

 それを両手で包むようにして差し出した。

「さあ、食べなさい」

 ふわりと香ばしい香りが鼻をくすぐる。

 全登の喉がひとりでに鳴った。

 震える指でパンを受け取り、かじった瞬間、目からぽろぽろと涙がこぼれた。

「……あたたかい」

 誰にも聞こえないほどの声でつぶやきながら、全登は夢中でパンをほおばった。

 甘く、柔らかく、温かかった。

 その味は、生きる意味を思い出させてくれるようだった。

 修道女は何も言わず、ただ微笑みながら全登の姿を見つめていた。

 やがて、腹が満たされると全登は息を整え、そっと顔を上げた。

「……この御恩は、どうすれば返せるのでしょうか」

 修道女は優しく目を細め、全登の頭に手を置いた。

 その手はやわらかく、母のように温かい。

「あなたはかしこい子ですね」

 その言葉に、全登の胸の奥がきゅっと締めつけられる。

 修道女は静かに全登の髪をなで、やさしく続けた。

「きっと、あなたは強く優しい女性になります。あなたの力で、弱き者を救ってあげてください」

 全登は涙をぬぐいながら、目を瞬かせた。

 修道女は微笑んで言葉を結ぶ。

「それが――神の意思なのですから」

 その瞬間、教会の鐘が再び鳴り響いた。

 その音は、幼い全登の胸の奥に静かに刻まれ、のちに幾度となく彼女を立ち上がらせる“祈りの音”となった。


――


 海賊船の甲板上では、力なく座り込んだ全登を、武吉が悠々と見下ろしている。

 勝ちを確信した武吉は、悠然と歩を進め、間合いの中央で立ち止まった。大鎌をゆっくりと高く掲げる。

「終わりだぜ、嬢ちゃん」

 ブウンッ!

 刃が全登の頭上めがけて振り下ろされる――

 ブシュッ!

 全登はとっさに身体を傾け、刃筋を逸らす。狙いを外れた大鎌は、その背へと深々と食い込んだ。

「ぐうッ……!」

「……まだ避ける力があったのか」

「ガハッ」

 全登の口から、熱い潜血が滴り落ちる。肩が上下し、荒い息が喉奥から漏れた。

「……ハア……ハア……」

「今度こそ、終わりだぜ」

 低く言い放つと、武吉は全登の背へ突き立てた大鎌を引き抜こうと力を込めた。

「……私には、剣以外にも武器があります」

「……なに?」

 目を細める武吉を、全登は見上げ――静かに、そして柔らかく微笑んだ。

「神への信仰です」

 その言葉と同時に、武吉の背後でまばゆい光が弾ける。

 光は輪を描き、音もなく広がり、逃げ道を塞ぐように武吉を囲い込んだ。

「な……なんだこれは!」

 必死に跳び退ろうとする――だが。

 全登の手が、大鎌を握る武吉の腕をがっちりと掴んでいた。

 その掌から、さらなる光が脈打つように溢れ出す。

「しまった――!」


 光の念術――アイアン・メイデン。


 光は一気に膨れ上がり、武吉を包み込んだまま巨大な像を形作っていく。

 やがてその輪郭は鋭く冷たい威容を帯び――

 虚空を見据えながら、頬を伝う涙を隠そうともしない、哀しき少女の姿となった。

 それは、哀哭そのものが実体を得たかのように、空気を震わせる。

 ブシュッ! ズシュッ!

「ぐあああっ!」

 閉ざされた像の内部から、武吉の断続的な呻きと鈍く裂ける音が響く。

 やがて前扉が開き、武吉は力を失い前のめりに倒れ込んだ。

 ――ドサッ

 その身体には無数の穿たれた穴が刻まれ、潜血がじわじわと広がっていく。

「……はあ」

 全登はそれを見届け、船縁にもたれ、肩で息をした。


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