羊たちの復讐
向こうの方に柵が打ってある。ここは牧場かな? 一列に並んだ羊たちがその柵を飛び超えていく。
心地よく晴れた草原、漫画の様な光景の中に僕はいた。
羊が一匹、羊が二匹、羊が三匹・・・、私は数え始める。
すると、一匹だけ顔の黒い羊が柵を飛び越えて列の最前部に達したあと、列から離れ私の元にトコトコと寄ってきてスクッと二本足で立ち上がった。ウールの左脇腹辺りをゴソゴソ探り一枚の紙を取りだし読み出した。
「ここで、問題です。タロー君がりんごを買いに八百屋さんに行きました。タロー君は林檎だけを買うはずが、洋ナシとみかんも買いたくなり、林檎を五つと洋ナシを三つと、みかんを十個買いました。このときりんごは一個100円、洋ナシは一個180円、みかん一個は80円でした。翌週、タロー君は再び、八百屋に果物を買いに行きました。このときは、其々値段は変わっていて、その値段は、りんご1に対し、洋ナシは2、みかんは0.6でした。さてタロー君は何人家族でしょう? 」
問題を読み終わって、紙を再びゴソゴソとウールの左脇腹辺りに仕舞い黙って立っている羊に、
「って・・・、なに・・・・、」
と、状況が把握出来ていない僕は、質問すると、
「ここで、問題です。タロー君が、」
「いやいや、問題はわかった、そうじゃなくて、これは、なぞなぞ的な、遊び? それとも、何かのテスト? 」
と、聞くと暫くたって、
「これは問題です。この問題を解ければ貴方に幸せが訪れます。解けなければ・・・、」
「解けなければ? 」
「メェ~~」
羊は一声鳴き声を残し、列の最後部に戻り、また自分の順番が来ると軽々と柵を飛び越え、一瞬此方をチラッと一瞥して視界の隅に消えて行った。
うぁっつ!
僕は声にならないような声をあげて目覚め、ベットからすばやく出てテーブルに紙とボールペンがあったことことを思い出し、テーブルの椅子に腰掛けながら、羊の問題を書き記した。
翌朝、あの後、再び寝てしまった僕は、定刻に起きてTVをつけて占いコーナーの今日のお羊座の運勢を確認して、コーヒーメーカ-とトースターをセットして、伸びやかにストレッチをしながら、今日の天気を確認して、ゆっくりと出来立てのコーヒーとトーストを味わい、定刻に出勤した。
「おはよう! 豚子さん! 」
オフィスに着くと僕は同僚の牛田豚子さんに昨夜の夢の話しをした。
私は、何か解らないことがあると豚子さんに聞く。豚子さんは一重で細い目をしていてふくよかなの体系のいつも肌がしっとりツヤツヤしている才女だ。物知りで、私の質問にいつもやさしく答えてくれる素敵な女性だ。
「あぁ、それ、羊の復讐ですよ」
「羊の復讐? 」
「えぇ、知りませんか? 」
「えぇ」
「羊って、寝れない時に、かぞえるじゃないですか、あれって見えているのは9匹じゃないですか、飛び越える前の柵の手前に4匹、柵を飛んでるのが、1匹、柵を飛び越えて柵の先にいるのが4匹、その後、頭の後ろに回って再び柵の手前に並び直す為に待っているのが29匹、都合38匹じゃないですか」
「えぇ」
やはり、豚子さんは何でも知っている。そして此方の無知を気付かせまいと話してくれているのだ。そして僕は、豚子さんの言うことは解っていなくてもまずは納得することにしている。
「でもあれって結構たいへんなんでよ。たった38匹で、最高2万回以上柵を飛び越えなければならない事もあるんです。一匹あたり500回以上ですよ! 」
「なるほど、そりゃ大変だ」
「次に羊の空白地域を作らないようなマネージメントが大変です。基本10万世帯当たり1チームの割り当てで、人口が分散している地域や、離島で不眠症の世帯がある場合は、チームを小規模にして常駐させたり、緊急の場合は地域の病院と提携してドクターヘリでチームを空輸したケースもあるらしいのです。いつも数えないのに、突然数え始める人もいるので」
「なるほどですね」
時に豚子さんの話は現実か空想かわからない時がある。
「でも、私は知っているだけで、実際は見たことないんです。私も羊を数えたことはあるんですが、どうしても羊ではなくて子豚ちゃんが現れて、皆、柵を飛び越えることが出来ず、柵の手前で溜まっていくんです。ブーブーと」
かわいい、僕が守ってあげたい。って、なんだ? このふざけた感情は? 豚子さんに対してはそんな感情は絶対にありえない。とりあえず無視する。
「それで、復讐って? 」
「ええ、テレビドラマの影響で不眠症って言葉が社会的に認知されたころから途端に不眠症が激増して、羊達の数えられる回数も激増したんです。それで、昭和五十八年頃に法改正があって、1日八時間以上柵を飛び越え続けた羊達は人間に復讐しても良いことになったんです。初めは不眠症で羊達を1万回以上数えた人間に復讐として夜な夜な現れて問題を出していたんですが、余計に不眠症になってしまって、昭和五十九年に即座に法改正され、復讐していいのは熟睡している今まで羊を数えたことの無い人間に限られる様になったんです。でも復讐の相手が言わば全くの無関係な人間なんて、あまりに酷いじゃないですか、それに心を痛めた羊たちは、問題を解いたら何か、ご褒美をあげなければと考えて、現在のようなスタイルになったと聞いてます」
「で、答えられない場合は? 」
復讐なのだから、答えられた場合よりも、答えられなかった際の過酷さの方が重要だ。
「毎夜出ます」
「毎夜出る? 」
「ええ、毎夜、寝ると必ず羊たちが夢に出るんです」
「一生、死ぬまで・・・・、」
「いえ、半年ほどです」
「半年? 」
「ええ、半年です。人間も引越したり、不眠症が治ったり色々変化があるじゃないですか、それにあわ
せて、羊達も、配属地域の再編成や、定年退職や、ニュージーランドへの研修旅行なんかが半年置きに
あるんです。」
「ほう、で、問題を解くと訪れる幸せってなんだろう? 」
「それはやっぱり、その人が心から求めているものが手に入るってことじゃないですか? 或いは、本人は気付いていなくても、その人にとって本当に必要なものが手に入るってことかも知れませんね。人によってマチマチでしょうけど、例えば、アインシュタインが相対性理論を発案する前夜、羊の夢を見たっていう話しは余りにも有名ですよね」
「ですよね。でも、解けた場合は相対性理論で、解けない場合は羊が半年間毎夜、夢に出てくるだけって、復讐にしてはバランスが著しく悪いような気がする。やっぱり、半年間寝るたびに起こされて、睡眠不足で不慮の事故で何人か死んでるとか? 」
「いえ、元々熟睡中の人の夢の中で、のどかに柵を飛び越えていく羊ですよ。皆グッスリです。問題を解いた人は、相対性理論のほかにも、鉱山の金脈を当てた人や、油田を発見した人や、コンピュータのマークをリンゴにしたり、大統領と結婚したデヴィ・・・、」
「それって、復讐? 」
「まぁ・・・、羊たちはそう思っているようです。それで充分満足しているようですよ。それに問題は非常に難しいんですよ。ちなみに、どんな問題でした? 」
僕は昨夜問題を書き記した紙を左のポケットから取り出し読み上げた。
「タロー君がりんごを買いに八百屋さんに行きました。タロー君は林檎だけを買うはずが、洋ナシとみかんも買いたくなり、林檎を五つと洋ナシを三つと、みかんを十個買いました。このときりんごは一個100円、洋ナシは一個180円、みかん一個は80円でした。翌週、タロー君は再び、八百屋に果物を買いに行きました。このときは、其々値段は変わっていて、その値段は、りんご1に対し、洋ナシは2、みかんは0.6でした。さてタロー君は何人家族でしょう? 」
「やはり・・・。無理問ですね」
「無理問? 」
「ええ、答えの出ない問題、無理問です」
「答え無いの? 」
「ええ、恐らく」
「でも答えた人もいたんでしょ? 」
「ええ、私も問題は知りませんが、先ほど言ったように非常に難しい問題ばかりで、いわゆる無理問も多くあるみたいです。実は無理問に見えても答えがあるのかも知れませんね。私には数学的な素養は無いので、いずれにしても解りませんが、犬塚さんなら、何かヒントが掴めるかも。噂をすれば、ほら」
犬塚さんは某有名大学の数学課程を首席で卒業したこの会社のエースだ。ただ一年早く入社したと言うだけで、僕は威張って彼によく自分の問題を解決してもらっている。
「あ、おはよう! 犬塚さん、ちょっと聞きたいんだけどいいかな? 」
彼は僕に対してはノーの選択肢は無い。
「は、はい。なんでしょう。」
「この問題なんだけど、解る? やっぱり無理問かな? 」
私は再度、紙を開き彼に説明した。
「う~ん、そうですね~、解けるとは思いますよ。」
「え、解けるの! 」
「はい。」
「お願いしてもいい? 」
「いや、でも、解けるといっても僕じゃ有りません。この手の問題が得意な方がおられて、その人が研究室にお持ちのコンピューターを使ったならば解けると思うんですが・・・。」
「思うんですが? 」
「ええぇ、何ていうかぁ、変わった方で、まず電話には絶対出ませんしぃ、メールも現在進行中の研究関係しか回答しませんし、だから質問があるときは直接会うしかないんですがぁ~会えても質問が下らないと、酷く言われます。会われますかぁ? 」
「犬塚さんも、一緒に来てくれる? 」
「すみません、ノーです」
「え、ノーなの? 」
「ちょっとぉ、その方とは色々ありまして・・・」
「そうか、解った、僕一人で会いに行こう」
「そうですか、では、ちょっと待ってください」
犬塚さんはノートに何かを書いて、そのページを一枚切って僕に渡した。
「これが猿渡教授の研究室の所在です。今日なら研究室にいると思いますよ」
「ありがとう、ここなら近くだから昼にでも行ってくるよ」
そう言って僕は、彼等の在籍するフロアから自分のフロアへは向わず、即座にノートの切れ端に書かれた住所へ向った。
「あのぉ~、おはようございまぁ~す、猿渡教授の研究室は此方ですか? 」
「おはよう、なんですか? 」
白衣に白髪、赤い顔をした初老の男が半開きのドアから対応してくれた。
「あのぉ~、僕は、こちらの卒業生の犬塚くんの同僚の、」
バタン! ドアは閉ざされた。
「あの、犬塚くんとは何があったかは存じませんが、お願いが有るんです!」
「アイツはすかん! 研究室のコンピューターを勝手に改造してそのまま卒業していってしまった」
「それではお困りですね、私が元に直しに来るよう説得しましょうか? 」
バタン! ドアは開けられた。
「その逆だ。ヤツは、この研究室に有ったスパコンとここにあった幾つかのコンピュータを分解して再設計して並列に繋いでスーパースパコンを作ってそれを放って卒業してしまった。簡単に言えば、ヤツは量子計算の理論から、分岐現象、断熱過程、エルゴード過程等の古典力学をうまく利用し、古いDOS/Vコンピュータ上で、組み合わせ最適化問題を解くアルゴリズム、いわゆる多変数複数分岐アルゴリズムを開発したんだ。これは従来の手法に比べて並列計算に向いていて、GPUを20台つないだクラスタで1万変数全結合の大規模問題を計算して、たった数秒で良解をたたき出した。さらにヤツは研究室のスパコンに組み込まれていたアルゴリズムの計算に特化した集積回路を用いて、通常のコンピュータでは解くことが難しい組合せ最適化問題を高速に解く“専用マシン”を開発し、二千変数全結合の問題の良解をたった0.5ミリ秒で導出した。当時、世界最速とされていた、日本最初の量子コンピュータでも同じ問題の良解の導出に5ミリ秒かかる。つまり、ヤツは開発に数百億円かかった世界最速最強のコンピュータの十倍の性能のコンピューターをあり合わせの材料で作って、無責任に研究室を出て行ってしまったんだ! 」
ちょっと言ってることが、よく解んないんですけど・・・。
「ヤツはヤバイってことだ! 君にも解りやすく例えるなら、ヤツはプラスチックバットとふわふわボールでジェット戦闘機を打ち落としたと言えば君でも解ってくれるか? 悪いが、ヤツに関わるのは、もぉマジ勘弁っ!」
バタン! ドアはまた閉ざされた。
「話だけでも聞いていただけませんか? 復讐されるんです、羊たちに」
バタン! ドアはまた開かれた。
「君も羊の夢を見たのか? 問題を持っているのか? 」
「ええ、教授も羊の夢を見られたのですか? 」
「まぁ、話を聞こうか」
猿渡教授は、私から問題の書かれたノートの切れ端を受け取ると暫く黙って見つめ、う~んと唸った。
「で、犬塚くんは何と言ってた、この問題を見て・・・? 」
「犬塚さんは、この問題は、」
「いや! いい! 聞かない! 私を紹介したということはヤツには解けないということだっ! 」
恐らく犬塚さんは、ここのスーパースパコンが必要と言いたかっただけだ、と言いかけたが、言うのは止めた。
「私はこの問題を解くっ! 解いてみせるっ! 若き数学者だった私は、昭和五十九年の羊復讐法改正前の不眠症で、羊たちに問題を出され更なる不眠症に陥れられたのだ! 犬と羊めっ! これでヤツとヤツ等にまとめて勝って見せるわっ! 」
「お、お願いします・・・」
興奮気味に赤い顔を更に赤く染めている猿渡教授を一人残し、僕は研究室を後にした。
猿渡教授からの解答を待ったが連絡はなかった。初めて羊の夢を見てから僕は毎夜、羊の夢を見ていたようだ。ようだ、というのも余りにも快眠で、彼等を見た記憶も無いほど熟睡してしまったことが何度も有り、今夜は数えよう! と決意しても、38匹全て数えられたことは一度もなかった。僕はこんな復習に何の意味があるんだろうかと、毎朝快眠明けに首をひねった。
それと、幾度か、あの黒い顔の羊を見かけた。彼は柵を軽々と飛んだあと、僕の視界から消える際に私を必ず一瞥する。僕が答えを持っているのか確認しているのだろう。しかし、僕は答えを未だ持っていないし、彼もそれ以上のこともしないので、日々は淡々と過ぎていった。
最初に羊の夢を見てか半年まで後一夜を残す最後の日、僕は、やはり無理問だったかと諦めていたが、やはり気になってしまい猿渡教授の研究室を訪ねた。
「あの~、おはようございまぁ~す。猿渡教授居られますか?」
半開きのドアの中には人の気配はない。
「あぁ~、君か、まぁ、入り給え。このドアも直さんとな、閉めても暫くするとすぐ開いちゃうんだよぉ」
「あ、は、はい」
トイレにでも行っていたのか、猿渡教授は僕の背後から声をかけてきた。
猿渡教授は幾分か老けて見えた。手をタオルで拭きながら研究室に入るなり教授は私に告げた。
「答えは、6だ」
「え、」
「だから、答えは6。タロー君の家族は6人。三歳の妹と十二歳の兄と両親と、父方の母との6人家族 だ。妹の名は、」
「解けたんですね! しかも家族構成まで! ありがとうございます猿渡教授! どうやって解いたんんですか? 」
「このスーパースパコンに君の置いていった問題を、そのままマイクで音声入力した。」
「え」
「解導出まで、0.1ミリ秒、君がこの建物を出る前には解は出ていた。大丈夫、解に間違いはない。仮に間違いがあったにしても、 全ての人間とコンピューターも含め、もはやこの地球上で 、その答えに勝る良解を出せる頭脳は存在しない。」
「6」
「ああ、6だ。よりによって6とは」
「6という数字に何か個人的に思い入れがあるんですか? 」
「ああ、6。其れはこの宇宙のいたるところに隠された数字。生命の秘密を解く鍵、全ての謎を解くための数字、我々の身の周りのいたるところに・・・」
僕にはあまり関心の無い話題だったので、猿渡教授を一人残し、そっと研究室をあとにした。
仕事を終え、家に着きシャワーを浴びて、パジャマに着替えてベットに入る。目を閉じると、早速、中央に柵のある晴れた牧場に羊たちが現れ、一列を成し、柵を軽やかに次から次に飛んでゆく。これを見るのも今宵が最後。感慨にふけっていると彼が列の最後尾に現れた。唯一顔の黒い羊だ。此方をチラッと一瞥してから二度見する。彼は今日が最後で僕がどんな顔をしているのか気になっていたのであろうが、こちらは答えを持っている余裕からか、少しニヤけていた。彼は柵を飛ぶ際も僕の視界から消え入る際も怪訝そうにチラチラとこちらを見ていた。僕はすぐには声を掛けず柵を越える羊を数えた。カウントが五百を越え、顔の黒い羊が十数回目の柵を飛んで、やや疲れが見え始めたあたりで危うく熟睡しそうになり、彼が此方を見た瞬間に手を上げて彼を呼んだ。彼は柵を飛び終え列の最前部になった後、最初に会ったときの様に僕の方にトコトコと寄って来て、僕の前でスクっと二本足で立ち上がった。
目をパチパチバ瞬きさせて黙って此方を見ている彼に僕は告げた。
「問題の答えは6、6だ。タロー君の家族は6人家族! 」
と答えると、彼は一瞬 ギョッ! と目を開き叫んだ。
「オメデトーゴザイマス! セイカイデス! ヒサビサニセイカイシャガ デマシタァー!! 」
と言って両手を挙げて小躍りした。すると、その様子を見ていた柵を飛んでいた羊や、僕の後ろあたりで待機していた羊たちが集まってきて立ち上がり両手を挙げて小躍りしたり四つ足のまま飛び跳ねたりして喜んでくれた。
飛び跳ね、動き回る羊たちを、僕は数え間違わないように必死に数えた。
「38だ! 全部で38匹だよ! 豚子さん! 」
そう叫んだことまでは覚えている。
翌朝、あの後熟睡した僕は、定刻に起きてTVをつけて今日の牡羊座の運勢を確認して、コーヒーメーカ-とトースターをセットして、伸びやかにストレッチをしながら、今日の天気を確認して、ゆっくりと出来立てのコーヒーとトーストを味わい、定刻に出勤した。
オフィスに着くと僕は豚子さんに昨夜の夢の話しをしようと彼女を呼び止めた。
僕は、何か新しい事態になると必ず豚子さんに報告する。
「あ、おはよう! 豚子さん! 」
「社長、おはようございます。今日の市況ですが新型ロボットの投入も顔色伺いの状況のようです。このまま開発は続行ということで宜しいでしょうか? 」
「社長? 」
「あ、すみません社内では役職名ではなく、苗字にさん付け、でしたね、失礼しました」
「あ、構わないですけど」
よく考えてみれば、僕は昨日も、その前の日も社長として仕事をしていた。僕はこの会社の社長で、豚子さんは同僚ではなく僕の秘書だ。年齢もかなり下だ。
半年間見続けた夢の全ては、たった一夜の夢だった。
「ところで犬塚さんは? 」
「今、研究開発室です。今回の産学協同プロジェクトの猿渡教授とは、師弟関係ですからね、犬塚さん、よかったですね」
「あぁ、それは、それは・・・」
僕は、一瞬狼狽したが、まぁ、いいか。と、そのことはと忘れることにした。
「ところで豚子さん。プライベートな話をしてもいいかな? 」
相手の気持ちを聞く時は大抵、“イエス”か“”ノー“か予想がついている。
「大丈夫です」
仮に予想が“ノー”だとしても、
「豚子さんは今、特定の人はいるのかな? 」
それでも、聞かずにはいられない、なぜだろう?
「おりません」
いつも気持ちを聞かれるときは、
「一緒に食事なんてどうだろうか? 今夜、大丈夫? 」
予感の様なものがある。
「大丈夫です」
答えが“イエス”、だとしても、
「僕と君、二人きりなんだけど? 」
聞かれているのに不安になるのは、なぜだろう?
「大丈夫です」
毎日いいことばかりじゃないけれど、
「つまり、出来れば・・・、君にプロポーズをしようと思っているんだけど 」
それでも、ドアを開けてみる。
「大丈夫です」
雨だとしても、晴れだとしても、
「大丈夫って言葉、使い方難しいよね。いいえ、結構です、の大丈夫もあるし、はい、お願いします、の大丈夫もあるし」
新しい朝を迎えにいくのは、
「それでは、改めまして。おはようございます。これからもよろしくお願い致します、狼さん♡ 」
“私“、”僕“だけじゃないから。 了
あとがき
こんな人を見た。
私がいつもの様に仲間達と牧場の柵を飛んでいると一人の人間の男がこちらを見ていた。
彼もまた、他の人間達と同じ様に、自分の大切なものが解らなくなっているようだ。私は彼が彼にとって大切なモノがなんであるか気付かせる為の手助けをすることにした。
私は、羊全体の意識を統一する超意識にアクセスした。
私たち羊は、いくつかの種の植物と同じように、一匹一匹では大した知性はないのだが、各々が羊全体の一部であり、自然界に存在する他の存在、または全体のために利用する限りにおいて、超意識にアクセスし、人間に勝る知性を利用することが出来るほぼ唯一の哺乳類だ。
超意識によると、 超意識が導き出した問題を彼が解くことが出来れば、彼が彼にとって大切なモノがなんであるか気付くことが出来る、とのことであった。
私は柵を飛び終え列の最前部に達してから彼の元へ行き、彼が恐れないように彼と同じように二本足で立ってみた。
彼は私が問題を 出題すると、それは何だと逆に質問してきた。
私は、人間の言葉にかなりの自信があったが、息が上がっていた為、発音が上手くいかなかったようだ。息を整え、もう一度問題を読み上げ始めると、止められた。
彼が私に問うているのは、どんな問題か、ではなく、なぜこの問題を自分が解かなくてはならないか、ということであった。
自分にとって大切なものが何なのかわからない彼に、今必要なことは、それを知る以外に何があるのかと逆に聞きたくはなったが、それは言わないでおいた。
「これは問題です。この問題を解ければ貴方に幸せが訪れます。解けなければ・・・、」
私は一瞬躊躇した。この問題を解けない場合、私達羊がとる行動としては、約半年間彼の夢に出続けて慰め、快眠を約束するか、或いは別の方法で彼の大切なモノを探す手伝いを模索することになるのだが、彼には是非答えにたどり着いて欲しかった。
「がんばれー!! 」
私は彼にエールを送ったのだが、それは羊語であった。
翌朝、目覚める直前に彼は見事に答えを持ってきた。そして、彼は彼にとって一番大切なモノがなんであるか気付くことが出来たようだ。
人間とは不思議な生き物だ。重たい頭を支えながら わざわざ 二本足で立っていることも不可解ではあるが、自分の大切なものがなんであるかすら解らずに生きている事にはさらに驚かされる。
時に、 自分の大切なものがなんであるかを他人に尋ねたりもするのだ。我々羊の間では、大事なことを忘れてしまった羊を、
”自分の名前を尋ねる羊。”
と、例えることわざがある。自分の名前を忘れて他羊に聞く羊がいるだろうか? 実際はよくいる。私も又、たまに忘れる。しかし、自分の大切なものが近くに有るにも関わず、それをわざわざ遠ざけ、或いは自ら離れ、自分にとって取るに足らない物のために時間を浪費し、時に怒り、また彷徨う人間に比べれば、名前など大した問題ではない。彼ら人間は自らの持ちうるすべての時間を費やして、自分にとって何が大切かを問い続ける。そしてそれを知ることすらなく一生を終える人間もいるのだ。そんな時間の浪費にいったい何の意味があるのだろうか?
我々羊と違い、自分も含め全体として幸福になる為に必要なモノ全てを、すでにその手中に収めているにも関わずだ。
ノルマンディーの海岸にて、2025.7.7