支配するメモ
総合病院の受付は人々の声と機械の音が入り混じっていて、耳を塞ぎたくなった。比べて待合室は穏やかなものだ。ガラスの向こうの中庭は神聖な楽園に見える。樹木が活き活きしているほど、人工的なこちら側にいることが際立って、いくらか淋しかった。ソファの淡い緑と床の汚れたベージュは、芝生と土を絵の具で描こうとして、白を入れ過ぎた阿呆の彩色だと以前から思っている。虚偽の芝生色をした硬いソファに腰掛けるとき、母はいつも背中を撫でていてくれた。受付から続いていた胸の騒めきが、それでやっと落ち着いていく。単純な自分が僅かに悔しい。病院で会う大人はすべて優しく、その分だけ劣等感を背負わされた。
やや離れた場所で僕と同じ年頃の男児が、その場でぐるぐる回って号ぶのを、僕がよくされるのと同じ調子で宥められていた。彼の金切り声に圧倒されて一気に息が荒くなったが、その子と同じになりたくなくて泣くのはじっと我慢した。
特別な性質の思い付かなかった四桁の番号が画質の悪いモニターに表示され、母と手を繋いで診察室に入る。僕の喉は施錠されているから人と話すことはほぼしない。医者とも目を合わせないようにして、首を縦や横に振っておいた。早く終わって欲しかったけれど、形式的な手続きで済まされるのも、ここまで来た忍耐の意味を削がれると見えて面白くなかった。
病院の近くにある施設に通うのも、僕はしたくないと何度も憤慨した。空間全体が刺激のないように作られていると窺える狭い教室。彩りも阿呆の色の亜種で統一されている。張り付いた笑顔の職員と対面した。様々な表情のイラストが描かれたカードを並べられて、今の気持ちに合うものを指差してみようと促される。上手くできると褒められた。しかし、見知らぬ大人を無理に子ども用の言葉で喋らせるのも馬鹿馬鹿しい。無力な赤子のように不必要に煽てられるのが癪で、感情のカードは一貫して左から順に選ぶようにした。
そんなときでも、数のことを考えていれば気は紛れる。職員が話した言葉の文字数を数えてみたり、テーブルクロスの模様を図形に見立てたりした。身体を使わなくても僕は遊べる。僕を侮った支援活動になんて興味はなく、大部分の思考は数で遊んでおくために使った。それで楽しめる人間は、特に子どもは、そういないらしいと知っている。とはいえ、普通を逸脱して特定のことに興味のある素振りをするのは、ここに通うおかしな子どもたちに共通しているから、数の遊戯は頭の中でやるに留めるようにした。僕は賢い自信があるのに、これから小学校に行くにはだとか、社会に出るにはだとか、大人たちは僕をなんとか「みんな」のなかに入れようと努力している。幼児の基準で測られることを内心で嘲って気高くあろうとしていれば、他の子より日常生活を手伝われているという屈辱も白んで薄まる気がした。
集中力は、薪と似ている。すべき物事に対して一定量の薪を焚べ、それを動力として意思を動かす。人は誰も細かく割った薪を持っていて、同時に多数の火を管理しているらしい。ただし、僕の集中の仕方は概して山火事であった。興味の矛先が向けばもう最後。燃え尽きるまで大火災が広がる。瞬きの減った眼はその煙で充血した。掛けられる声は意味を持たないし、食欲や睡眠欲さえ炎に覆われる。尿意までもが灰になって、失禁に至ることもあった。
もちろん大人は、そんな僕をどうにかしようと躍起になる。何をするにも時間を決めて、時計の針に従って行動させられた。アラームが鳴って読んでいた本を無理に閉じられるのは気に食わなかったが、予定が決まっているというのは悪くなかった。慣れてしまえば、むしろもっと時間に囚われたいとさえ、自ら思うようになる。
目を覚ました瞬間から再び床に就くまで、詳細に何をするのか決めておけば鼓動をせっかちにする漠然とした不安を抑えられた。毎日、情報は津波のように僕の脳を襲うが、時間という変化しない枠組みに整然と並べることで、その水圧を真正面で食らわずに済む。だから、意味なんて考えずに手続きを守ることが第一に優先された。用意された夕食を目の前にして、十九時になるまでの数分間を、お預けされた犬のように時計を見つめて待つのは、確かに何のためかは解らない。それでも実際に、しっかり守れば気持ちよく、守れないと途方もない焦燥に苛まれるのだから仕方ない。すぐに食べずにせっかくの食事を冷ますのも、逆に支度が遅れたときに泣き喚くのも、母は許していてくれた。メルトダウンに陥って塞ぎ込むよりは差し支えないと判断したのだろう。そういう機械仕掛けの歪んだ生活が十歳くらいまで続いた。
学年が上がるに比例して、対人関係や学習内容が複雑化する。一日の長さは一定であるというのに、行動すべき事項や記憶すべき事項が増えるのである。長い時間を掛けて決めてきたルールに新たにそれを組み込むにあたり、混乱や葛藤が生じた。山火事の起きやすい薪の保管方法であることには変わりないのだから、無意識に何かに集中してしまうと、込み入った予定は遂行できないことが多くなる。その度に激しく自責し、反省で頭がいっぱいになった。結果として、さらに予定が崩れていく。もう取り返しようもなくなると、布団の中に逃げて咽び泣いた。リセットボタンを押すように、次の日を待つしかできなかった。
知能の低い同級生らを見下す自分こそが、最も生活を上手に送れていない。呪いのような恨めしさを抱えて定期検診に訪れれば、主治医からメモを取ることを勧められた。頭の中に詰め込んでしまうのなら、それを外に出して可視化しておくのが望ましいとのことだ。感覚や暗示としてしか機能しなかった僕の頭の中の熱源を、できるだけ言葉にして外気に触れさせる。自然と溢れ出す漠然とした不安というものは、規則によって縛り付け、単に抑え込むのでなく、言語によって解体することで受容してしまえるのかもしれない。次第に、僕の理想的な生き方と決めたルールとの間の整合性を論理的に問題視できるようになる。そうして無矛盾な暮らしに憧れた。
メモのデータ構造は、紙媒体でありながら優秀であった。些細なことを執拗に気にする性格は設計者に向くようだ。酷く悩みながら作った完璧に思える数冊のメモ帳に僕の記憶や思考様式を転写していく。一日のスケジュール、勉強の計画、クラスメイトについて知っていることなど。体系的に整理されるほど、思い出すという作業をパスする分、明確に情報同士が繋がった。メモは記憶の拡張である。憶えておくために常に注意を払っていた脳の一部が能動的な思考のために解放された。重たい荷物を下ろしたみたいだ。メモを見れば必ず何をすべきか判るという安心感が僕を少しだけ勇敢にする。学校でも安定して好成績を取り、逃げ出すことなく真面目に授業を受けられた。整備されたルーティンによって、火事にも津波にも苦しむことなく日常を過ごせるようになったのだ。事あるごとに狼狽していたそれまでを鑑みれば、メモの効力の著しいことは明白であった。
けれども、そんな暮らしが当たり前になるほどに、なぜか満たされない心の隙間が見立ってきた。メモとタイマーに支配されて生きるのは、右に流れてきたものを左に移すだけのロボットのようだと感じる。もしも僕の体で生きる権利を明日から誰かに譲り渡したとしても、メモに忠実に従えばまったく同じ暮らしを送ることができるのではなかろうか。
僕は、生きる意味を見失った。
医者はメモを取るのが望ましいと言ったが「望ましい」とは何を指していたのだろう。確かに、溢れそうな頭を大量の情報に曝す緊迫感は非常に苦しい。集中力を暴走させて人間らしい生活を送れなくなるのも問題だ。それでも、それらをすべて取り去ってしまっては、僕を生きている面白みはないと思えた。幼少期から病院に連れられて劣っていると自覚したために隠したがった特性は、同時に自分らしさでもあって、ポケットの中で握っていられる揺るがない自己愛だった。社会に望ましいと思われる人間である必要はない。そんなものを笑い飛ばせるだけの余裕を持ちたい。僕の能力を労働力の献上のため、最大限に引き出すことよりも、僕自身が生きている実感を伴って、納得できる道を歩むことの方がずっと肝要なのだ。矛盾や無秩序のなかで、当たり前に転がっている幸や不幸さえも、無加工のままで受け取りたい。つまりは、メモの恩恵など棄ててしまって、辛く険しい真なる自由を手に入れたくなったのだ。眼球を乾かし、膀胱を破裂させ、思うがまま非効率に拘泥ればよいではないか。それでしか得られない感覚もあって、それは僕だけにしか生まれない。僕が誇れる唯一性こそが、大火を纏い、大海を統べる潜在能力を有しているのだ。
ガラスの向こうの楽園。この中庭はどこから入るのかもよく判らない。周りの干渉を受け付けない孤高の緑色に惹かれた。画質の悪いモニターに次々と四桁の数字が映される。ある数字にユニークな性質を見つけ出した僕は、帰ったらこの出来事を文章に書き起こそうと決めて、好きなだけ心の内で反芻させた。