暑い日の過ごし方
手を勢いよく開くのは、甲が筋張って見えるからあまりしたくない。親指の付け根が三角形に凹むのだ。酷く痩せた手を見ると人は気味悪そうにする。服もできるだけシルエットが隠れるようなものを選んだ。幼少期から運動を退け続けているせいで筋肉もなく、万全な体調であっても病人と見間違われる。とはいえ、少食なわけでもない。基礎代謝が大変高いらしく、食べても食べても太らないのだ。それはダイエットをする人には羨ましいのだろうが、僕としてはもちろん喜ばしいことではない。皮膚から肋骨が透けて見える体を入浴前に確認すれば、男児が憧れるような肉付きとは程遠くて、すっかり萎えてしまう思春期だった。
そんな見た目でありながら、僕は極度の暑がりである。巨漢が冷房の設定をガンガン下げて、なおも汗を流しているコメディチックな映像は想像に容易い。けれども、痩せ細った人間が冷蔵庫のような部屋を作り出していれば、それはホラー映画の類である。暑い暑いと口にすれば、いつも痩せているのを揶揄われた。だから少しは我慢するようにしているが、それも長くは続かない。これは体がどうというよりも、精神的な問題だ。熱が体表から逃げず、血管で暴れているような感覚にどうしても耐えられない。寒さで手足を紫色にするくらいが、実のところ一番心地よいと感じている。
新年度が始まる頃には、徐々に気温への不満も募ってくる。中学生だった僕は詰襟のホックまできっちり留めて、いかにも生真面目な生徒であったが、第一ボタンさえ開けている気怠げな奴より、この服装に不満を持っていたはずだ。暑さへの苛立ちを涼しい顔に隠すけれど、どうにか少しでも凌げないかと常に思案を巡らせていた。
春はあけぼの。花壇の傍らに生えた雑草の纏う朝露が、柔らかな陽を慎ましく反射する。一瞬で失せてしまう朝の涼みを気に入って、毎日誰よりも早く教室に着いた。フロア中の窓を開け放ち、教室の壁に張り付いている心許ない二台の扇風機を祈るように回す。平成も終盤に差し掛かっているというのに、公立中学校にエアコンさえ設置できない市の財政には呆れてしまう。
黒板の前にあるオルガンで涼しげな曲を弾いてみる。現実逃避すればするほど、虚しさが湧いた。蒸し暑い教室に半日閉じ込められるなんて、丸焼きにされる豚のようだ。実に悲しい。子どもであることの無力さを憂いて、オルガンは一層寂しそうに鳴った。他の生徒たちの登校してくる時間が近づくと、鞄を持ってしばらく教室から離れる。凄まじい換気がされていることなんて知らないふりをして、普通の時間に改めて登校するためだ。一連の作業によって僅かにでも穏やかな一限目を受けるのを好んだ。それでも、僕の小さな抵抗を無下にして、生ぬるい風が吹く一学期の通学路は日毎に不快感を増した。
ゴールデンウィークが明けると、夏の足音が聞こえてくる。金曜日、帰宅した僕は耐え難い苦痛を覚えていた。薄い汗の粘度によってワイシャツが肌に固着する感覚のせいである。陽射しを遮断できる屋根はありがたいが、停滞している自宅の空気に特別の快楽はない。熱病はどこに居ようと逃れられないのだと突き付けられる。その圧迫に半狂乱で戦慄した。家でくらい冷房を付けて過ごしたい。心からそう思った。
しかし、我が家は痩せた中年の母親との二人暮らしである。彼女は暑いのも寒いのも我儘に嫌がるが、強い冷房に当たると膝が痛いだとか言う。空調にうるさいのは親子で同じだけれど、快適に思う温度が重ならないのだ。いつも僕がエアコンを付けようと言ったところで、財布の紐を握る立場を利用して、電気代がどうだとか言う。それは養われている僕から反論を封じるための口実でしかない。本当は単に自分に合う室温でないだけだ。昔のように一生懸命泣いて大きな声を出し、力任せに僕の言うことを聞かせるのも悪くはないけれど、学校で見せている優等生の姿とあまりに異なるから、できればもうしたくない。であれば心理戦で勝つしかない。冷房の統治権を賭けた負けられない戦いだ。
次の日、タオルケットでも暑くて、休日であるのにかなり早く目を覚ました。敷布団と皮膚の間で閉じ込められている熱気に嫌悪感ばかり膨らむ。僕はそこで、もっと暑くなる前にエアコンのフィルターを掃除しておこうと提案した。フィルターさえ掃除すればエアコンはいつでも使える。忍耐力のない母は、冷房の運転に対するハードルさえ下げておけば、ほんの少しの不愉快で適当にスイッチを押すかもしれない。この提案が近道かどうかは判らないが、とにかく何もしないよりはよさそうだった。
高所にあるエアコンの掃除は、背の低い僕たちにはなかなか重労働であって、いつも協力して行う。ガスストーブがあるため冬の間は放置されているエアコン。すっかり埃を溜め込んでいた。筐体そのものにも汚れが蓄積していて、掃除機で撫でるだけで煤けた埃が床まで落ちてくる。そのために机やソファまで動かせば、大掃除の雰囲気まで出た。高いところが苦手な僕は、母の乗る脚立の隣で、取り外したフィルターを受け取ったり、ホースの長さが足りない掃除機を持ち上げ続けたりする。加えて床掃除は大部分を僕がした。
普段は手伝いなんてしない僕が、丁寧に取り組んでいる様に母は感心したようだ。濡らしたフィルターを乾かす束の間の休憩にアイスをくれた。バニラアイスがビスケットに挟まれている少し高級なやつ。雑に割って半分渡す。座布団も出さないでフローリングへ直に座って、机もないまま並んで食べる。急いで洗った手は石鹸臭く、部屋の空気は埃っぽい。美味しさは明らかに半減したけれど、今日だけの特別な風味だから悪くはなかった。指がべたついたとしても、ビスケットの屑が床に落ちたとしても、どうせ掃除するのだから気にならない。換気のために開けている窓から受ける風が見窄らしい都市の空気であっても、ハイキングに来た気分もした。軟弱な体の僕らにとって、掃除は筋力トレーニングである。暑さも運動も嫌いだと理性は脳内で語るけれど、妙に清々しいのはなぜだろう。額に汗を感じる。口の中は冷たく甘い。そうやって表裏で違う温度の状態をしばらく味わいたくなった。行き場もなく暴れ回るのではなく、部屋を清潔にするための結晶として熱が体に使われている。アイスなんて久しぶりに食べたと優しく笑う母を見て、その裏腹な心地よさを気兼ねなく受け入れられた。
結局、掃除をしたところで、その後二週間は我が家に冷房がつくことはなかった。毎日不満を言って、毎日暑さに辟易する。そのために、僕の体温は役立った。
朝露も見なくなった早朝の教室で、今日もオルガンを弾く。細くてしなやかな指が鍵盤で踊って、爽やかな音を紡ぎ出す。痩せたこの手は母と似ている。学校のオルガンに合うジブリ映画のこの曲も、確か彼女が好きだったものだ。ポケットからミルク味の飴を取り出す。袋をティシュで包んで隠して捨てる。平熱にじんわりと糖分が溶けていった。詰襟のホックを外して何度か深呼吸をする。静まり返った教室で同級生が来るのを待った。