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檻は空を行く

 およそ二十年前、直立するレッサーパンダが日本全国に名を轟かせたことがあった。彼は随一の長寿で現在も存命らしく、その動物園は全国からの熱視線が止んでもなお、彼を文字通り“客寄せパンダ”にして縋り続けている。一時は混雑していた園内も、ブームが過ぎれば公園然とした落ち着きを取り戻したが、近隣に住む者はかつて有名だった彼がいるのならと、大した関心がなくともとりあえず訪れてみるものだ。幼き日の僕もそのうちの一人だった。


 動物を愛おしいと感じるのは生得的な性質なのであろうか。特に小動物を愛でられることは、社会にとって「愛情のものさし」として機能しているようにも思える。しかし、同種である人類に向ける慈愛と他種へのそれは無関係だし、例えば生類憐みの令など、動物を特別視したことで国家が凋落した歴史さえある。僕としては、そういった整合性のなさが気に食わず、物心つく前から動物愛護の精神に懐疑的であった。かと言って、毛嫌いする必要もなかったとは思うが、周りに流されるのをよしとしないのは今と変わらず、徹底的に異議を唱え続けたことを覚えている。

 幼稚園で飼育していた畜生への給餌を当番制にされたときも「絶対にやりたくない」「これをやることで得られるメリットが一つもない」「まず飼って欲しいとも頼んでいないから、僕の番が来たら必ず逃がす」などと言い貫き、子ども用の言葉で叱られながらも、泣き喚いて絶対に意思を曲げなかったものだ。

 母はそんな息子の非情をどうにか改善できないかと、僕が好きそうな“勉強”の方向性で生物に関する図鑑を渡してきたりもした。ただ、当の僕はそれを読んだところで、生物全体に係るタクソノミーについて「もっと無矛盾な分類法があるのではないか」といった興味を示しただけで、個別の種に対しては一瞥やりもしなかった。


 「週末、動物園に行ってみよう。」

母のその申し出に、僕はもちろん反対した。動物を見てもどうせ無感動に退屈な顔をする。それだけに飽き足らず、においや衛生面を気にして悪態までつく。そんなことは分かりきっているのに、また母を悲しませることになるのなら、初めからやらない方が懸命ではないか。前回動物園に行ったのはやっと歩き出したくらいの頃であったが、その朧げな記憶を辿っても動物園は僕のなかで歯医者や眼科よりも嫌いな施設であった。言い訳をするために、当時の僕は新明解国語辞典第四版の「動物園」の語釈を覚えておいた。


 ──生態を公衆に見せ、かたわらに保護を加えるためと称し、捕らえて来た多くの鳥獣・魚虫などに対し、狭い空間での生活を余儀無くし、飼い殺しにする、人間中心の施設。


 この語釈は動物園を動物愛護の観点から批判している。要するに動物が好きであったとしても、動物園を嫌うことも可能だという証拠だ。それを受けて「もし僕が動物園に好意を持てなかったとしても、動物が好きかどうかは判断できないから、その点については結論を出さないで欲しい。」という申し開きを先んじてしておいた。

 当然、そんなことを上手く喋れない幼児の口で捲し立てたところで、大して聞かれることはなかったが、僕としては言いたいことは一通り言えたから、安心して動物園に向かう準備ができた。人間中心の施設に行くのは、やはり気に食わないが出かけるだけで少しは楽しいお年頃である。手を繋いで電車に乗ったりすることの方が胸を弾ませるのだった。


 件の動物公園は、モノレールの駅名にもなっている。その駅から直通で入園することができるのだ。電車を降りてからモノレールに乗り換えるために、エレベーターはぐんぐん空高く登っていく。窓付きのエレベーターは幼心を刺激した。

 モノレールには、レールの上にまたがって走行する跨座式と、レールからぶら下げられて走行する懸垂式のものがある。そして、このモノレールは懸垂式の中で世界一の長さを誇るとギネスブックに認定されているらしい。別に今回は動物園に行くための交通手段に過ぎなかったが、モノレールに乗ることも初めてであったから、こちらは些か楽しみにしていた。

 エレベーターを降りて初めに驚いたのは、車両がやってくるスペースが電車のホームに比べてかなり浅いこと。深い場所に砂利が敷かれた線路しか見たことがなかったから、僕でも上り下りできそうなくらいに浅くつるりとした地面に違和感があったのだ。街にいれば見慣れているレールも、近くで見ると異様に大きい。旅行先でロープウェイに乗ったときは、高所で揺れるために僅かに恐怖心が発露したものだが、ここまで頑丈な見てくれをしているのなら、安心して乗れるだろうと胸を撫で下ろした。ホームで待っている間に、次々と調べたてのモノレールの蘊蓄を傾ける僕であったが、それが最も楽しんでいるときの様子であることを知っている母は、ただ微笑んで話を聞いてくれた。

 たった二両の直方体がやってきて、わくわくした僕を余所よそに軽々しく扉が開く。この様は電車とさほど変わりなく、また手を繋いで乗り込んでからもその印象は揺らがなかった。空席もあったけれど、僕は車窓を一望したいと反対側の扉のそばに立ち、母の太もも辺りに掴まっておいた。けれども、初めての乗り物に極めて大人しくなっているところから、怖がっているのだろうかと心配され、肩を引き寄せて背中を撫でられていた。不安と期待が入り混じった緊張と対峙するばかりで、ただ固まっていたのだ。

 すーっと動き始めて、ホームを飛び出した車両は天空に放り投げられたようで、果たして街があった。アスファルトの絨毯の上でミニカーがちょこまかと動いている。ロープウェイから見た雄大な自然よりも、人工的な街をこの角度で見られることの方が、僕としては感動した。よく見たいと、掛けている眼鏡を両手で持ち上げて、双眼鏡のようにレンズを目に押し当てる。そうすると景色が少しだけ大きく映るのだが、それでも目が悪かった僕は、母に質問攻めをした。すると珍しく笑顔である僕に対して、喜んで遠くの景色を解説してくれる。いつの間にか久しぶりに抱き上げられて、同じ視線で車窓を観ていた。


 しかし、褪せたレッサーパンダの看板に出迎えられて、動物園に着いてしまうと、その高揚は一気に萎んでしまった。粗野なにおいに満ちている。動物たちがよく見えなくても、眼鏡を目に押し当てることもしなければ、質問もしたくはならない。ただ説明看板を読み込んで満足している僕に、母はモノレールのときと同じように、あれこれ指さして見てごらんと言うが、大衆に裸体を晒して食や色にしか興味を示さない獣たちを間近にすると、予想よりも酷く幻滅してしまった。全体を通して一番面白かったのは、ライオンの群れには「プライド」、ハイエナの群れには「クラン」とわざわざ名前が付いていると知り、満員電車に乗っている人間の群れは「プリズナー」とでも名付ければいいのではないかと考えたことくらいだ。

 自然に囲まれて昼食を取るのも、砂埃なんかを気にしてしまって気分は乗らなかった。しかし、そうやって終始訝しげな面持ちで苦痛そうにしている僕に対して、母がどうにか楽しませようと奮闘しているのも申し訳なく思えてしまう。「やっぱり動物園は嫌だったね。ごめんね。」と言われてしまうと、初めからそう言ったじゃないかと言いたくはなったが、どこか胸を締め付けるものがあって押し黙ってしまった。


「帰りのモノレールは、逆向きに乗って終点まで行ってみたい。」


 落胆している母に対して、一緒に出かけられたこと自体は極めて楽しかったのだと言いたくて、両手で持ったおにぎりを見つめながら、珍しく自分から提案をした。立ってはいなかったレッサーパンダ、キーキーうるさかった猿山、どんな体験よりも今日一番感動があったのは、モノレールに乗ったことだったからだ。僕はそのとき、なんで頭を撫でられたのかよく判らなかったが、その優しさに甘えていた。


 先月、仕事で久しぶりにモノレールを使った。混雑していたために反対側の扉のそばまで追いやられてしまって、乗り降りが面倒であったが、そこはいつかと同じ位置であった。窓から見下ろす街は、ひっそりと人間の生態を覗いているようである。もちろん檻の中なのは、車両側かもしれない。

 確か、動物園の帰りのモノレールでは、終点まで辿り着くと疲れて眠ってしまい、無駄に長くした帰り道はずっと母の肩を枕にしていたはずだ。僕は今でも動物愛護の精神には懐疑的であるが、それでもきちんと愛を知っている。子どもの頃には煌めいて見えた車窓をただぼんやりと見つめて、一人そんな回想をしていた。

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