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どうせ眼鏡の猪口才だ

 図像を伴う記憶のすべては、分厚いレンズに歪められたものである。眼鏡を通さずに見る景色は、水浸しにした水彩画だ。それは物心付く前から揺るがなかった。未熟児で生まれたために視細胞が育たなかったのだと聞く。先天的な弱視だ。歩き出すよりも前に眼科に通い始めた。剥がれ落ちそうな網膜をなんとかレーザーで押さえ付ければ、代償に近眼はますます酷くなる。ただでさえ珍しい幼児の眼鏡は、小さい体をそのままに素早く甚だしく屈折を強めた。正面から見ると輪郭が凹んで、顔の外側に何重もの渦と圧縮された世界を映す。奇怪な異世界に押し潰されて、幼気いたいけな丸い瞳も愛らしさを失くすように縮小した。そんなレンズであろうとも弱視の眼には力が足りない。他の子が星空の煌めきに指を差してはしゃいでいても、僕には空っぽの闇だった。


 四月、学校でする視力検査は見世物小屋の様相を呈する。暴力による支配で恐怖心を蔑ろにし、火の輪を潜らされる怯えた獅子が僕で、その獅子の日々など知ろうともせず、好奇の目を向けるだけの観客がクラスメイトである。僕には輪型の指標が身を焼き尽くす炎をまとっていると見えた。じっと向き合って像を分厚いレンズに通過させても瞼を狭めてしまう。その様は滑稽であるようで、検査後しばらくは僕の視力の話で持ち切りになるのだ。それは自尊心を傷付け、出来損ないの眼球への嫌悪感を増幅せしめた。星にしても指標にしても、僕にはなぜその姿が捉えられないのだろうか。何を視るにも毛様体筋におびただしい力を掛ける必要がある僕と違って、簡単そうに判断できる観客たちが羨ましい。羨望なんて生易しいものでなく憎悪を込めた嫉妬であるかもしれない。そうした欠乏は獅子を空腹にして、爪牙を研がせるのだ。

 眼鏡は理知的な印象も併せ持つ。つまり実際には生得的な強度近視であっても、文字の細かい難しい本を読み耽った結果だと誇示することもできるのだ。幸いなことに勉強に関しては、未熟児由来の弱い体を事由に学校を休み続けたところで困らないくらいには自信があった。とても小学生が掛けるようには見えない眼鏡であるのなら、とても小学生とは思えない頭脳を見せびらかせばよかろう。僕は眼鏡が似合う賢そうな少年を目指した。価値なんて知らない学問の知識をテストの点という標識のために貪り食う。努力して贅肉を付けていくほど一層レンズの度は強くなるが、悲しくはないと無視できるくらいに博識たることに魅了された。そうして、むしろ裸眼で生活する他の子どもたちに対して、無知で愚かな証に違いないと軽蔑する心情まで生まれ、誰もがいけ好かない猪口才ちょこざいとなったのだ。冴えた頭脳という爪で威嚇し、怯んだ愚者を冷笑の牙で噛みちぎる。そんな妄想がピントの合わない現実の代替を務めた。


 僕の小学校では高学年になると算数の授業がたまに少人数指導で行われた。到達度の高い者と低い者に分かれた授業。すなわち、頭の良し悪しが可視化されるのだ。算数の授業が始まる前に、半分程度の成績上位者が一列になって教務主任の待つ視聴覚室へ向かう。案外移動できない学級委員長は赤面し、いつも寝ている奴が教師に叩き起こされて向かう姿なんかもあった。それまでは何とはなしのイメージでしかなかった勉強の出来が、明確に二分されたことで印象を強固にしたのだ。

 当然のように高い方に選ばれた猪口才にとっては、ひれを得たように子どもたちを愚弄できる絶好の機会であったが、どうしても気になることがあった。それは眼鏡率の違いだ。眼鏡は賢者の証であるのだから、眼鏡を掛けている人は漏れなく視聴覚室組に入らなくてはいけない。しかし、そうもいかなかった。教室に残されるくせに無駄に目の悪い児童もいる。そいつらには心底落胆した。というより怒りさえ湧いた。爪牙の強さを保証していた持論への反証を間抜け面のまま行われてしまう。愛国心や郷土愛を一切持たない僕だが、家族が犯罪をしているような気分と云えば合致する。眼鏡の魔力が失われる悔しさから教室組を思い切り見下す優越感も抱けない。それがまた悔しかった。


 ある日に行われた算数のテスト。平均点が五十点くらいであり、公立小学校においては明らかに難しすぎた。扇形を組み合わせた図形の面積を求めなさいなんていうものだ。満点を取れたのは僕と、中学受験を志しているらしい華奢な一人の男の子だけであった。生意気を拗らせてよくいじめられていた僕だが、彼はそれをしない紳士然とした奴だ。同級生にも敬語を使う。加えて低学年の頃から眼鏡を掛けていることも好印象であった。一人だけ満点であった方が嬉しかっただろうが、彼と共に頂の地位に就くのであれば、差し当たり満足はできる。

 あまりの出来の悪さに、そのテストを解き直す時間が授業として設けられた。友だち同士で教え合うようにとのことだ。視聴覚室組は些細な計算ミスをしていただけの者も多く、徐々に教える側へと回っていく。ただ、僕はわざわざれ者に勉強を教えてやる面白さも見出せず、そんなことも分からないのかと内心で嘲るだけして勝手に本を読んでいた。ですます調の彼の方も、社交が不得手であって自分から教えることを恥ずかしがっているようだ。担任はそんな僕たちを見て、ため息を吐いた。少し考えてからペアになって教えてみてはどうかと助言をされる。特に成績の悪かったと思われる二人の児童と四人の班を作られて、僕らが教えるようにと命令を下した。

 相手は毎朝無駄に時間の掛かりそうな髪型をしている無口な女子と、汚らしく服を着る会話のテンポがのろい男子。面白いことに二人とも眼鏡を掛けていた。学級全体でも眼鏡使用者は十人程度なのだから、四人揃って掛けているのは目立った特徴である。眼鏡の印象に悪影響であるこの二人に教えるのであれば、尽力せねばならないと僕は決意した。相方は女子と話すことを避けるように、鈍い男子の方を教えると急いで言って、すぐに見えないパーテーションを作る。それならと女子の方を見ると、よりによって気味の悪い分厚い眼鏡の猪口才が担当だなんて災難だと言わんばかりに、暗い顔で俯いていた。僕だって心のなかではクラスメイトを饒舌にき下ろしているが、向かい合ってしまえば実に大人しい。彼女の表情には簡単に落ち込んでしまう。獅子は猫科であることを思い知るのだ。

 吃りながらもなんとか話す。彼女が問題のどこを理解できなかったのか丁寧に考察しようとした。けれども、書いている文字が小さいためによく見えず、無意識にどんどん顔を近づけてしまう。また嫌な顔をされているかもしれないと肝を冷やしたが、それには優しい表情で紙をこちらに寄せてくれて安心した。やはり眼鏡民のよしみである。僕は自信が湧いて一生懸命に教えた。こうした問題を解くときのフローチャートを書いて、いくつも例題を提示しながら、彼女が直観的にかつ作業的に解けるような工夫を施す。生まれつきの数学好きであるから、好きなことを語るうちに話し方も明るくなった。隣で教えていた彼さえも感心したようで、いつの間にか一対三の構図で偉そうに講釈を垂れるようになる。幼かった僕には、それを客観視して照れ臭くなるまでにしばらく時間が必要だった。

 授業が終わると児童たちは口々に問題への愚痴を吐いていた。もちろん僕の先程までの雄弁は張子の虎であるから、文字で溢れかえるような休み時間の音声がすれば、存在を隠すように読書の続きに集中する。それでも、僕の教えた女子が友だちと何を話すのかは気になった。さりげなく聞き耳を立てると、意外にも僕の教え方が分かりやすかったと言っているらしかった。話しづらそうだと思っていた直観に反して、普通に真面なところもあると評している。僕に課された「普通」のハードルが著しく低いことは気になったが、素直に達成感があった。また、女の子が僕についての話を悪夢を見たようにでなく、清々しく穏やかにしているという事実に、どこか初恋めいた気恥ずかしさを覚える。視界の端でひしゃげた彼女の笑顔は見られなかった。


 今、僕は教育についての研究をしている。その理由の一つには、きっとこの日に感じた解放感がある。気高き獅子としての誇りは爪や牙に宿るのではなく、人の成長を手伝えるだけの寛大さにこそあると悟ったことで、攻撃性から解放されたのだ。レンズの隔たりで屈折していた僕の視線と僕への視線。それを受け入れる諦観が鍵だったのかもしれない。

 寝る直前まで授業計画を練っていると、睡魔の限界に達した。慣れた手つきで眼鏡を外し、手探りでケースを開ける。腹を満たした獅子の眠る寝室を、カーテンから洩れた薄い月明かりが優しく照らしていた。

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