雨上がり、生きる意味を知る
「バケツをひっくり返したよう」という比喩を聞いたことはあったが、実際に目の当たりにしたのは、それが初めてのことだった気がする。朝の天気予報では降水確率なんて極めて低い値だったはずだ。これは僕の思い違いではない。昇降口にあるすっからかんの傘立てが証拠だ。六時間目の終わりにいきなり降り出してきたせいで、なんとか止んでくれないかと、児童らは授業そっちのけで窓の方ばかり見ていた。ただそんな願いも虚しく、地面を叩く大粒の雨は見える景色のすべてを鈍色に染めた。
いわゆるゲリラ豪雨というやつだから、しばらく教室で様子を見ていたら直に止むに違いない。そんな担任の訓示を受けたこともあって、薄暗い教室には帰りの挨拶が済んでもなお、重たく動かない時間が流れていた。まるで学校が隠しステージに進んだような雰囲気だ。いつもと違う厄介事ではあるものの、その「いつもと違う」というだけのことに、高揚感を抱く者もいるらしい。隣の席の子だって、口では最悪だと漏らすが、わざわざ友だちみんなに話しかけにいく様は、日常と透明なゴム膜を一枚隔てて、些か浮き足立っているようにも感じられた。
けれど、僕は違った。
湿気で机がベタついているのも気にしないでトランプゲームを始める彼らのようにはなれないし、かと言ってそれを気にも留めずに宿題を始めるような優等生であることも難しい。いじめられることが当然である僕にとって、学校は居心地のよい場所ではないし、感じたこともない不思議な熱に満たされている教室では、余計に何が起きてしまうか判らなかった。今日、昼休みに蹴られた太ももがまた少し痛む。この教室は終わりが決まっていない昼休みだ。恐怖しか呼び起こさない緊迫感に曝され続けるくらいなら、豪雨に洗われながら帰った方がよいかもしれない。
覚悟を決めた僕は、声を掛けられてしまうことのないように、なるべく静かな手つきで、教科書だとかを予備のエチケット袋として用意していたビニル袋に無理やり突っ込んで、それらをランドセルに蔵った。例の担任からの指示のせいで、教室のドアを開けようとしたとき、忠告を守ることしか能のない子どもから注意を受けたが、予想通りのそれには聞こえないふりをして、さっさと昇降口まで向かう。暗い廊下を進むごとに教室の笑い声は遠ざかっていく。僕だけがいない教室の笑い声である。そこにいられない自分の異質さと腑甲斐なさが身に沁みて唇を噛み締めた。決して振り返らないようにして、ずんずん歩いた。
お気に入りの靴で来なかったことが不幸中の幸いかもしれないと言い聞かせつつ、体の前に抱えたランドセルの上にパーカーを羽織り、苦しいのは我慢して強引にファスナーを上げる。その所作は土砂降りのなかへと踏み出す決意のようであったが、古い扉をガタガタ揺らす獰猛な臭いの生温かい風を受けると、少しだけ勇気が足らないことに気が付いてしまう。竦んだ足を鼓舞するために、大袈裟に深呼吸を二回だけして、これ以上の躊躇いが生まれることがないように駆け出した。
フードを深く冠ったところで、校門を抜ける頃には首筋に水分を感じるくらいに全身がびしょ濡れになってしまう。それに眼鏡のレンズが水滴だらけで、信号さえよく見えないし、音も大音量の雨のノイズによってほとんど聞こえないのだ。周りの状況がよく判らないという焦燥感に苛まれ、とにかく事故に遭わないようにだけ注意を払った。しかし、往き交う車は突然の大雨に急いでいるのだろうか。それとも水飛沫を上げて走行する様がそう思わせるだけか。何にしろ酷く恐ろしい下校道であることは相違なかった。
そのはずなのに、胸が騒めくのは何故だろう。僕だけ教室に居ることができない悲哀や、篠突く雨に見舞われた家路への恐怖。様々な感情が綯い交ぜになっているが、表面にあるそいつらを引き算すると、奥の方には確かに弾む気持ちがあった。「いつもと違う」に高揚させられるのは、僕も然りなのだ。きっと後で母に叱られるであろうしとどになった衣服の肌触りも、町のなかで雨を形振り構わず受け止めるという奇行も、今後ほとんど経験することはないような気がして、背徳感を覚えてしまった。
目を凝らして青信号を確認しては、横断歩道をびちゃびちゃと足音を立てて駆け抜ける。靴下が濡れて気持ち悪いなんていうのは随分前に通り過ぎて、靴の中敷きが水に浮いてくるような感触さえあった。全部が初めての感覚だ。心の奥に眠っていた童心に目を向けてやれば、さっきまでの憂鬱や悲しみも徐々に姿を消すみたいだ。
抱えたランドセルの内側を濡らすのは、雨ではなく僕の汗である。閉塞感を感じる黒雨は暑くて堪らないのだから、汗も滾っているのは言うまでもない。帰路はまだ中腹辺りであるが、運動不足の体躯にはかなり限界が迫っていた。酸性雨は髪にあまりよくなさそうではあるが、もうそんなことには構っていられない。フードを剥いでしまうことにしよう。
すると、世界が一気に広がっていくように感じた。ずっと呼吸が荒くなっていたことに改めて気が付く。少しでも濡れないようにと、必死に身を屈めて走ってきたけれど、もう何をやっても濡れるものは濡れる。目立って潔癖症な僕も諦めがついて、立ち止まって真上を見上げた。いつもなら軽微な埃も許さず、常に磨き上げている僕の眼鏡。そのレンズの上を楽しそうに水滴が転がっている。もう何もかもがどうでもよく思えてきた。これは悲観ではなく、すべてがどう転んでも僕にとって意味があるものなのかもしれないという楽観である。もはやこの場に座り込んでもよかったけれど、やや進んだところに潰れたクリーニング屋があって、その建物の道路側には庇があることを知っていたから、とりあえずそこまでゆったり歩くことにした。
雨宿りを始めてから五分ほどで明らかに弱まってくる雨。それは重たくなったパーカーを脱いで、ランドセルの中身が無事か調べるくらいの時間しかなかった。極めて早く弱まっていく雨音は、無理を押して校舎を飛び出してきたことの意義を笑い飛ばすみたいで、物悲しいような気がする。しかし、その小さな憂いは、やっと雫の歪みを排することのできた視界が、水浸しのアスファルトから輝きを捉えたことで、完全に消え失せた。それは雨が止んだことを僕に報せ、風の匂いさえ優しく変えるのだ。庇が邪魔になって歩き出し、諦めとは反対の感情で天を仰ぐ。
そこには分厚く立体感の強い雲を掻き分けて、鋭く散乱する一筋の光があった。ほんの少しだけ見える優美で淡い青。天国があるんだとしたら、きっとこんな場所なんだろうと簡単に思えるほど、その景色には絶対的な魅力があった。濡れた体が心地悪いのだから、家まで急げばいいものを、自然と立ち尽くさせるほどだ。網膜に、脳裏に、しっかりとそれを焼き付けるため、しばらくそのままでいるしか選択肢はなかった。雲の輪郭を輝度の高い色相のグラデーションが明確にして、ようやく顔を出して微笑んでいる陽の光を讃えているみたいだ。濡れた手を翳してみると、表面の水滴がハイライトと踊る。
僕は、生きる意味を知った。
僕が生きてきたのはこの空を見つけるためだったんだ。頭の中でそんな一文が生成される。息を呑んでは、視覚と言葉の間で心が揺れ動き、潤い溢れた世界に僕の涙も加わった。教室と寝室の間に現れた空。重たい雲と優しい雲との間で繊細に放たれた光。いずれ消えてしまうそんな奇跡は、どこにも居場所がない僕と似ている。髪の束から滴った感触は、慰めようと撫でてくれる愛情に思えた。溢れそうになっていた心のバケツをひっくり返すと、この景色により掛けられた日常と隔てる透明なゴム膜を突き破った音がした。
翌る日は熱に浮かされ布団の中にいた。部屋の隅にはひっくり返されたランドセルがまだ干しっぱなしになっている。太ももにできた痣を僅かに押して、ひりつく感情に微笑みかけた。いつだって、生と死の間で、今という輝きを見つめている。