あやかしと森の女神
「わっ・・・!」
突然、足場が抜けた!
水中へと吸い込まれたアベルは、必死で冷静になり、すべきことを思って目を開けた。水は鉛色にひどく濁っていて、何も見えない・・・と思ったら!
足の下に、白く腐敗した死体の顔がある・・・!
アベルは動揺し、目を固くつむり、恐怖のあまり、そのまま手足をめちゃくちゃに動かして上がろうとした。
〝指輪が欲しいか。〟
〝分かるぞ。お前も狙っているな。〟
〝ここまで自分から入ってくるとは、図々《ずうずう》しいやつだ。〟
〝見ただろう。真下に、愚か者どもがごろごろ横たわっている。お前もそうなる。〟
自分の周りのあらゆる方向から声をかけられる。いまいましそうな声・・・あやかしたちだ。アベルは勇気をふり絞り、返事をしようと思った。だけど、どうやって水の中でしゃべればいいんだ? 心の中で答えて伝わるだろうか。
「はい、指輪が欲しいです。壊すために。」
〝壊す・・・!〟
あやかしが驚いた声を上げた。
〝わしらの命を壊す!〟と、また別のあやかしの声。
その返事はそれらを怒らせたようだったが、同時に、この無鉄砲な少年に興味をひかせた。
〝お前は自分のためではなく、ただ指輪を壊すために来たというのか。〟
「もちろん、理由はあります。正々堂々たる戦いのため。」
〝お前は何者〟
「僕が誰だか分からないのか。」
アベルはわざと少し偉そうに言った。
〝お前は誰だ〟
「僕は、正統な王家の血を引く者。」
〝わしらの主人が許した・・・〟
あやかしたちは黙って、じっくりと少年を調べた。
〝確かに・・・あの方と同じ血を感じる〟
〝だが、指輪は渡せん。出ていけ〟
〝きっと闇に葬られる、恐ろしい〟
〝命は譲れん、去れ〟
〝お待ちなさい〟
ナイフのように鋭く、凛と響く声が入ってきた。
〝正統なる王家の血を引く少年よ〟
「はい・・・。」
〝壊す・・・とは、清める・・・ということですか〟
「浄化すると言っていました。それをできる人が、一緒に来ているんです。」
〝指輪を渡して〟と、綺麗な声の主はあやかしに言った。
〝いくらあんたの頼みでも聞くわけにはいかん〟と、あやかし。
〝そりゃあ、あんたは、ここを気に食わないと思っていなさるだろうから、そうおっしゃるが〟
〝彼に任せれば、あなたたちは解放され、この森を、もっと遠くまで自由に行くことができるようになるかもしれないのですよ〟
〝なぜ、そんなことが言える〟
〝長い年月を経て、あなたたちは、すでにこの沼の妖精となっています。けれども、呪われている。精霊は時に特殊な力を持つ人間に利用され、自由を奪われることがありますが、清められれば解放されます〟
〝本当か〟
〝あなたたちは、これまで助けてくれる存在を知ろうとしなかった。ここへ来る者をみな敵とみなしましたね。中には、彼のようにほかのために来た者もいたかもしれないのに〟
〝わしらは、そんなことができる人間を知らなかった〟
〝彼は特別な人。望みをかけるのにじゅうぶん値します。今こそ勇気を出して〟
あやかしたちは、互いに顔を見合い相談した。
〝よし、分かった。指輪を渡そう。お前さん、光を見たらそこをつかめ〟
〝さあ、これだ〟
アベルは、閉じている瞼の前が明るくなったのに気づき、言われた通りに、そこを無造作につかんでみた。
感触が得られた。アベルは、固くて小さな輪っかを握りしめていた。
そして周りから気配の全てが消え、沼底が現れた。
そうして、あたかも神のように再び姿を現したアベルは、寒さで歯をガチガチいわせながら岸辺に戻った。
待っていたリマールがアベルの髪を軽く拭いて、冷えきった体をバスタオルで包んでやった。
紫色の唇から声は出てこなかった。アベルはただ黙って、手のひらを上にした右手を開いた。
握りしめていたのは、銀の指輪だ。
何か文字か模様のようなものが彫ってある。それを、コラルだけが理解することができた。ただ、コラルでさえ口にする勇気はなかった。儀式を行わなければ問題のないことだが、それは短いながらも魂を売るような呪いと誓いの言葉が、精霊文字と言われるもので刻まれてあるということだった。まさしく伝説通りに。
続いて、この呪いの指輪は、その場で浄化されることになった。
コラルはさすがに速やかに動いて、淡々と準備を整えていく。沼のほとりに適当な場所を選び、赤い布を敷いて指輪をのせ、小さな巾着から何か粉をすくい取って、それを指輪にふりかけている。ラキアにさえ意味はさっぱり分からないが、とにかく仰々《ぎょうぎょう》しい、いや神々《こうごう》しいことが行われている。呪われた指輪はたいへん丁寧に扱われているように見えた。ほかの者たちは、少し離れたところからただ緊張して黙ったまま見守った。
指輪の前に座っているコラルは、何やら右腕を大きく動かしたあと、胸の前で両手の指を奇妙な形に組み、そのまま念を一つに呪文を唱え始めた。
すると、しばらくして・・・。
「見て!」
ラキアが叫んだ。沼を指差している。
アベルもレイサーも、そしてリマールも声もなく目をみはった。精霊使いたちにとっては見慣れた超常現象にも、常人はいちいち驚愕する。ただし、今回はコラルが起こしたことというより、沼が本来の姿を取り戻す過程を目撃しただけのこと。
鉛色だった水がみるみる澄んでいき、なんと青緑色に変わったのだ。水面には空と雲、それに木の葉が映っている。
指輪の方は紫色の炎をあげて燃えたあと、ドロドロした形の無いものになった。すくい上げることもできなくなったので、その上に土を盛り、ラキアが見つけてきた綺麗な色と形の石を、墓石のように置いた。呪詛から生まれたにしろ、故人が身に着けていたもの。それは遺品である。
こうして、無事に浄化の儀式も終了し、彼らの任務は完了した。これで、アディロンはもう人喰いの森ではなくなったはず。この瞬間、そこに何か変わったことは起こっただろうか。
〝ありがとう。お礼に、あなたが本当に必要になった時に、一度だけ助けましょう。あなたの胸に、約束と祈りの光を灯しておきます。その時まで〟
パッと顔を上げたアベルは、今届いた声の出どころを探すようにして、木々のあいだのあちこちに目を凝らした。こんなふうに話しかけられたのは初めてだった。だから思った。
風の声・・・ううん・・・きっと森の女神様の声だ。
それから、大事なことを忘れていたと気づいて、アベルは隣に立っているレイサーに囁きかけた。
「死体を見ました。沼に沈んでる。」
レイサーはうなずいて、ため息をついた。
「ここはイスタリア城主の管理下。エオリアス騎士に頼んで、遺体を収容してもらおう。」
一行は、帰り支度を始めた。
そして去り際。アベルはあやかしたちのことを考え、綺麗な声を思い出した。それらは自然にかえったこの沼に、まだいるだろうか。人を脅かし襲いながらも、怯えながらここに住みついていた。それらが自由な沼の妖精となって、幸せに暮らせますように。あの綺麗な声の主が言ったように。
「約束と、祈りの光・・・。」
そう心の中でつぶやいて、アベルは澄んだ青緑色の沼上を見つめた。




