父の言葉 ― 確かな平和のために
あやかしの沼に入ると、堂々たる態度で請け合ったアベル。
ところが、割り当てられた部屋に一人になると、しばらくして熱が冷めた。そう、あの時は少し興奮していたのだ。これから戦いが始まる! という話を上の者から聞き、関所の衛兵たちが迎撃準備を進めている勇ましい雰囲気に影響されて、自分も勇気ある立派な戦士だという錯覚に陥っていた。
無惨に犠牲になった隊員たちの声を聞いたアベルは、許せない! 敵は卑劣な手を平気で使う悪だ! と強い憎しみをずっと覚えていた。だから、あの時は、恐怖よりも逆襲できるという闘志の方が勝っていたのである。
なのに、今思えば、まだ見習いなのにあんなふうに言うなんて、自分ではない者が答えたような気分だ。そして情けのないことに、ふいに勇気がくじけた。
そうして、時間が経つにつれ恐ろしさの方が増していき、眠ることができなくなってしまった・・・。
自分にがっかりしたアベルは、それで、気分転換に外へ出た。そして、庭園の道沿いにあるベンチに座って、涼しい夜風を浴びていた。ここは玄関のすぐそばで、背後には一階の窓が並んでいる。
誰かが玄関から出て来た。ポーチに立っている衛兵が、その人に向かってうやうやしく一礼した。その人は軒先の低い階段を下りて、アベルがいるベンチの方へ曲がってきた。
ルファイアス騎士だ。
「窓からお姿が見えたので。ご一緒しても構いませんか。」
「はい、もちろん。」
アベルが少しずれて場所を空けたところに、ルファイアスは腰を下ろした。
「大丈夫ですか。」
「え、あ・・・はい。」
そう答えながらも、アベルは視線をそらしていた。
ルファイアスが無言で顔をのぞきこむ。
見透かされている・・・と、アベルは観念した。
「いえ・・・あの・・・ほんというと・・・あんまり大丈夫じゃないです。」
わかる・・・というように、ルファイアスはゆっくりと二、三度うなずいた。
「私でよければ。」
下手に聞いたりしないで、目の前の騎士はそう言った。その優しい眼差しは、聞いて欲しいことだけ話せばいい、そう言ってくれている。
「沼のそばで、彼らの声を聞いたんです。」
ルファイアスは首をひねった。今の言葉だけで、だいたいのことは理解できた。亡くなったヘルメスと親しい間柄だったことで、その特殊能力、すなわち風の声を聞ける力については知っていたし、疑わなかった。御霊が集う神秘の山。そう呼ばれるイルマ山で、賢者ヘルメスに育てられたこの少年が、ヘルメスと同じその能力を持ったとしてもおかしくはない。変だと思ったのは、〝風〟ではなく〝彼ら〟の声と言ったことだ。沼のそばでと。そこで死にかけたルファイアスは、それについてもサッと理解できた。ということは、死者の声だと。彼が聞いたのは、きっと惨劇の記憶。風というのは、そのようなものまでよみがえらせて、聞かせることができるのか。
一方アベルは、ルファイアス騎士が何の指摘もしてこないので通じていると分かり、そのまま言葉を続けた。
「とても悲しく響く悔しそうな声でした。涙が出て、止まらなかった。それで僕・・・敵は突然、思うように力が使えなくなったら、すごく困って慌てふためくだろう。殺された彼らの怨みだと思わせ、悪は討たれると、神の裁きだと思い知らせてやれる、仕返しができるだろうって。だから、あの時は沼に入るのを怖いと思わなかった。」
昂ぶる口調とやや乱暴な言葉遣いに、ルファイアスは眉をひそめる。
「バラロワ王国の君主や、その王の命令に従って、卑怯な殺戮をやり遂げた者たちに、どんな裁きを望みますか。」
そう問われて、視線を地面に向けたアベルは、言わずにはいられなかった言葉を正直に口にした。
「彼らと同じような、ひどい死・・・。」
ルファイアスは目を伏せ、重いため息をついた。
「残虐に殺された者たちの死は、報復されるべきだと、本音を言えば私も思います。ですが、先代の王やアレンディル陛下は、その復讐心を解放して実行に移すようなことは、決してしないでしょう。それをすれば、確かな平和をつかむことができなくなるから。憎しみが憎しみを生み、争いが果てなく続いていく。そして、また民間人が巻き込まれていく。陛下は、臣民すべてが永遠に安心できる未来を一番に望んでおられます。耐えがたくても、彼らへの裁きは、過ちを認めて後悔させる以外にありません・・・。」
「でも・・・ラルティス総司令官は・・・彼は納得できるでしょうか。僕よりも許せないでいるはず。」
「確かに、その時は彼も、〝仇を討たねばならない!〟 と強烈に思ったでしょう。しかし今は、その憎悪に打ち勝つため、きっと必死で戦っている。もう戦争はしないと、武器を置いて言える日を迎えるために。これは先代王、つまり、殿下の御父上の言葉です。
〝我々は、いつか武器を置いてこう言える日のために、涙をのんで正義のもとに戦う。もう戦争は止める 〟」
僕は子供だ・・・と、アベルは、自分の方が思い知らされた。父は間違っても、怒り任せに人を傷つけたり、手にかけたりしない人だ。その理念に誓って。
「父・・・父上・・・。ルファイアス騎士、もっと詳しく話してください。」
以前、この英雄騎士から、父は死を恐れない勇者だとも聞いたアベルは、あやかしの沼に挑める勇気をもらいたい! とさらに思った。気持ちを立て直さなければ。
「例えば、前に聞かせてくれた、バラロワ王国との戦いの話。」
そして、ふと知りたいと思った。父が憎むことなく懸命に理解し、変えたいと努力を続けた相手のことを。しかし、未だに分かり合えないその相手。
「その時、敵の君主の顔は見ましたか。」
「少しだけ。今、彼の顔を見た・・・と言えるのは、私と、エオリアス騎士だけでしょう。もう一人、先代の王ははっきりとご覧になったはずですが。」
そう答えたルファイアスは、言葉遣いを物語の語り口調に変えた。聞き取りやすい声で、丁寧に話して聞かせた。時代背景について説明し、歴史を語った。関守マルクスが軍師として活躍した話をし、エオリアス騎士が最強だと謳われるその腕のほどを話した。もちろん、先代のラトゥータス王については、前に話したよりもさらに詳しく。
アベルは、父が臣民から愛される理由をさらに理解し、当時はもっと多くいた敵と、どう向き合っていたかをも知った。
そして物語は、ついにバラロワ王国との大戦争の核心へと及んだ。
「その戦いは、本来、一騎打ちではなかった。混戦だった。しかしその中で、ついに互いの王が剣を交え合う事態になった。両者、体の大部分を覆う甲冑を身に着けていたが、兜まで、バラロワの王のものは顔のほとんどを隠していた。だがある時、何を思ったか兜を取ってラトゥータス王に挑んだのだ。それを見た我らの王も同じように応じた。周りにいた我々は思わず控えて戦いを見守った。どちらも素晴らしい腕前で、強く、互角だった。だがそのうち我らの王が優位になった。我々は勝利を確信した。ところが、相手の近衛兵が割って入ってきたのだ。それで、私とエオリアス騎士も透かさず護衛についた。戦いは再び混戦となり、結果的にはバラロワ王国が敗走して、我らウィンダー王国が勝利を手にした。そこでの二人の戦いは長く感じられたが、実際には束の間だったかもしれない。」
「どんな人でしたか? 髪や、目の色は。」
「髪は赤かった。瞳は茶色。少し頬がこけてエラの張った顔に、その時は顎鬚を生やしていました。逞しさよりも、頭の良さを感じた。」
「じゃあ・・・イルーシャ王女とは違う。」
「彼女は母親似でしょう。」
ルファイアスは、もうじゅうぶん話したつもりでいた。アベルディン殿下のその表情 一一 眉間の皺は無くなり、怯える様子も消えたこと 一一 から、もう大丈夫だと思われたから。
一方は傾聴し、一方は語ることに集中していた二人は、そのあいだ気にならなかった夜風を肌身にしみるほど感じた。体が冷えてきた。
「殿下、最後に聞かせてください。あやかしの沼に入ると改めて決心した、その想いや目的を。」
復讐心は閉じ込めた。僕も、争いの無い時代を夢見て、確かな平和をつかむために、一役買う。そう思うと、恐怖心まで克服できた気がした。
顔をルファイアス騎士の方へ真っ直ぐに向けて、アベルは答えた。
「ただ、正々堂々《せいせいどうどう》たる戦いのため。」
ルファイアスは安心したようにほほ笑んで、うなずいた。
とても落ち着いて言うことができたアベルは、大袈裟だけれど、何か悟りの境地に達したかのような気持ちになった。良かった、やっと眠ることができそうだ。




