新生活 ― それぞれの今
紺色に金糸入りの軍服を着て腰に剣を下げている、見た目こそごくごく普通のその少年は、見習い兵士であるにもかかわらず、週に三度は当然のように王宮を訪れる。
その少年の名は、アベル。正式名はアベルディン。
実は、このウィンダー王国の若き王、アレンディルの弟である。アベルはあだ名・・・というより、別人としての名だ。
リマールがイルマ山に帰ってきてから、いろんなことがあった。アベルも、そして周りも変わった。アベルにとってその最初に、これまでの人生で最も辛く悲しい出来事が起こった。
おじいさん、つまりヘルメスが亡くなったのだ。
それをきっかけに、アベルはリマールと共に山を下り、王都で暮らすことを決めた。
そうして、アベルは王弟ということを隠しながら、レイサーに憧れて兵士への道を歩み始めた。
一方、リマールもまた、再び医師の勉強をしながら薬剤師兼見習い軍医に。
レイサーは、(アベルディン)王子の護衛を忠義を尽くして務めた功績から、陛下より改めて叙任の話を持ちかけられ、レイサーの方でも心境の変化があったようで、ようやく正式に騎士となった。陛下が直々に授ける栄誉をあろうことか断るなんて正気じゃないと、周りの誰もを驚愕や激怒させたものだったが、当時それを理解したアレンディル陛下も変わっている。
とにかく、そうして、さすらい戦士をやめて実家へ帰ったレイサーは、今はカルヴァン城の騎兵隊の若き隊長として活躍している。
そして、長男の跡を継ぐように、三男のエドリックが王の近衛騎士に就任し、その長男ルファイアスは、ラクシア市の領主になると同時に、カルヴァン城の城主となった。
次男のラルティスは、依然として南の国境警備隊を統べている。
そう言えば、ラキアは・・・少しは成長しただろうか。精神的に。
アベルが、彼女の言動を思い出して思わず笑みを浮かべ、つい今を忘れていたそのあいだにも、止まることなく足が向かっているのは、王宮の衛兵所。この国でいう衛兵所は、単にそのまま衛兵の詰所のこと。まずはそこを経由する。そこには、アベルが週に三度はやってくることを知っている、王の近衛騎士のうち一人が待ってくれている。エドリック騎士か、マクヴェイン騎士のどちらかが。アベルを、誰にも呼び止められずに目的地へと速やかに連れて行くためだ。
軍服を着ていれば、衛兵所までならみな自然な目で見てくれる。その詰所はいくつか存在するが、アベルがいつも立ち寄るのは、王宮の大庭園に入って右に見えてくる建物。茶色の壁に、傾斜の緩い灰色の屋根をかけている。
その入口の庇の下に、大きな犬が丸くなって休んでいる。番犬などではなく、ただここの兵士たちに可愛がられている老犬だ。毛の長い耳はずっと垂れていて、目はうっすらと白濁している。アベルが姿を現すと、トロンとしたその目をちょっと大きくして、嬉しそうに見つめてくれるものの、体はついてこなくて尻尾をパタパタと動かすだけ。
アベルはしゃがんで、「やあ、調子はよさそうだね。」と、言葉をかけながら、その老犬の頭や背中をなでてやった。表情と尻尾の動きでそれは分かる。
それから衛兵所のドアをノッカーで鳴らし、中へ入れてもらった。
この日待ってくれていたのは、マクヴェイン騎士。彼は、少年とゆかりあるベレスフォード家の長女アヴェレーゼの夫である。彼はラルティス総司令官と同い年だそう。彫りの深い顔で、その容貌に似合う渋い声をしている。
ここでの会話は決まっていて、アベルが、「ただ今、参りました。」と言うと、マクヴェイン騎士は、「さあ、ついて来なさい。」と、わざと上から少し偉そうに返す。それから二人で外へ出れば、騎士の言葉遣いはたちまち尊敬語に変わる。
「今日はお見えになると思っていました。この三日間、おいでにならなかったので。」
「何かとつかまって、いろいろと手伝わされてたんです。人使いの荒い先輩たちで。」
マクヴェインは思わず笑い声を漏らした。
「それは恐れ多い。彼らは正体を知らないので、仕方ありませんが。」
王の近衛騎士と、一見ただの少年兵士の二人組は、やがて主宮殿のエントランスにたどり着き、大理石の長い広廊を横切り、中庭に面した柱廊を通り抜けた。そのままいくつかの中庭を過ぎ、ずっと一階を進んで行った。
アベルはしょっちゅう、辺りをきょろきょろしながら歩いた。王宮にいるのを誰にも気にされないようにマクヴェイン騎士が同行してくれるのだが、やはり落ち着かない。国王とその母や家族が住む王宮とは、例えお呼びがあったのだとしても、通常、下っ端の兵士が気軽に通って行けるような公共施設などではない。
「殿下、そんなにおどおどされなくても大丈夫です。この辺りで誰に出会おうと、不審がられることはありませんから。」
今度は苦笑いを浮かべて、マクヴェインが肩越しに言った。
今、二人はもう、清掃にくる召使いでも、高い地位にある者しか入ることを許されないような領域にきていた。つまり、ここですれ違う者はみな、すでにアベルの素性を知っているということ。
「あの・・・その、殿下っていうのも・・・ちょっと・・・。」
それに、演技でも上からものを言ってくれる方がずっと気が楽だ・・・と、アベルは思う。
そのあいだにも、やがて連れてきてもらった今日の部屋は、黄色を基調とした壁や床、それに南に面しているおかげで明るい小部屋だ。一階にあり、吐き出し窓の外にはテラスが張り出していて、そこの塀で囲まれた庭には、窓がついた煉瓦の犬小屋があった。室内の方には、低い小さな木製テーブルと椅子、それに木馬や、大小さまざまな形の積み木が置いてある。ここは、子供部屋の一つだ。
そんなふうに、通路という通路に注意を払いながら訪れるアベルを、その部屋にいた者たちは喜んで迎えた。