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三十年前の肖像

作者: 緒川 文太郎

 私が幼い頃の一番古い記憶は、二階建てアパートの階段上から、父親を見下ろす光景だった。路肩に車を停めて、笑顔で此方に手を振る父親を、私はじっと眺めているだけだった。


 私の父親と母親は結婚しておらず、私は世間で言う所の私生児であった。母親の妊娠後に、父親が既婚者である事が発覚したが、それでも母親は私を産む事を決めた。

 私が産まれてから暫くは、父親は定期的に母親の元を訪れたそうだが、それも長くは続かなかった。父親の経営する会社が経営不振に陥り、次第に訪れる頻度が減って行き、約一ヶ月振りの訪問となった日の事だ。

 父親はいつもの様に、アパート前の路肩に車を停め、軽くクラクションを鳴らして到着を知らせた。母親は私を連れて、アパートの階段上から父親に手を振った。

「ほら、お父さんが待っているわ。行きましょう!」

母親に急かされたものの、その時の私はどうして良いのか解らなかった。只其処に立ち尽くすばかりで、微動だにする事も出来なかった。父親に笑い返せば良かったのか、手を振り返せば良かったのか。それとも、父親の元に駆けて行くべきだったのか。

 父親も母親も、もうこの世に居ない今となっては、私が正解を知る事は不可能だった。


 それから三十年が経ち、私は家庭を持ち母親となった。入籍前の妊娠は避けたいと、必要以上に神経質になっての結婚だった。私自身も気付かなかったが、己の生い立ちが生んだトラウマの所為だろう。そんな正式な手順を踏んだ上での結婚生活であったが、残念ながら間も無く終わりを迎える予定だ。子供が二歳になったのを契機に、預かってくれる保育園を見付け、私は元の職場に復職する事にした。

 離婚の切っ掛けは、夫の浮気だった。けれども、それはあくまでも切っ掛けであって、本当の離婚理由では無いのだろう。夫との結婚生活で離婚の理由は幾つも在ったが、我が子の事を思うと踏み切れないでいただけだ。本当はずっと、離婚出来るタイミングを見計らっていたのかも知れない。

「本当に、これで終わり……なのか?」

最後の日に夫が問うた。

「えぇ。今までありがとう。」

「今なら……今なら未だ、僕達は遣り直せるんじゃ……。」

「ごめんなさい!もう……どうしても無理なのよ。」

「……そうか。本当に、ごめん。」

そう言って肩を落として立ち去ろうとする夫に、私は最後の言葉を掛けた。

「私達の夫婦関係は終わりだけれど、貴方があの子の父親である事実は変わらないわ。今まで通り、あの子の父親で居てあげて。」

それだけ言い残すと、私は踵を返して歩き出した。一刻も早く、此処から立ち去らなければならない、そんな使命感に駆られたのだ。全く泣く予定も無かったのに、私は大粒の涙を流しながら歩いた。


 夫との離婚から一ヶ月、日曜日に私は我が子と共に遊園地に向かった。離婚時の話し合いの際、一ヶ月に一度、父親として子供に会う事を約束していたのだ。

 私達が到着すると、遊園地の入場口前に既に元夫の姿が在った。元夫は私達親子の姿を認めると、此方に向かって大きく手を振った。

「ほら、お父さんが待っているよ。行っておいで!」

だが、我が子は一向に歩き出そうとしない。大好きな筈の遊園地が目の前に在るのに、無表情のままに立ち尽くすのみである。私は、在りし日の己の姿を思い浮かべた。三十年前、父親の元へと駆け出す事の出来なかった幼い己の姿を……。

 私はその時になって初めて気付いた。己自身の手で、この子にも己と同じ業を背負わせようとしてはいないか?大人の勝手な都合で、幼い子供から父親を取り上げてはいないか?

 私は手に提げたバッグを肩に掛け直すと、少し身を屈めて我が子の方を見た。

「良い?今からお母さんと駆けっこで競争だよ。先に着いた方が勝ち!負けたら遊園地で遊べないよ!」

そう言うと、私は遊園地の入場口前に向かって駆け出した。

「えぇ、ママ~!待ってよ、ママ~!」

半ベソを掻きながら、我が子が私の後を付いて駆けて来る。そして、そのまま入場口前で待ち受ける元夫の腕に飛び込み、空高くに抱き上げられた。離婚前には見た事も無かった元夫の笑顔と、先程とは打って変わった我が子の笑顔に、私は思わず目頭が熱くなった。

「あれ?何で泣いているの?」

「か、花粉症なの!」

「そうだったっけ?」

「なったの!今年から!」


 夕方頃に迎えに来ると言い残し、私は我が子を元夫に預けて其処を立ち去った。一ヶ月に一度のみだけれど、父親として会って貰える様に約束をしていて良かったと思った。子供から父親と触れ合う機会を、奪わずに済んだのだと。しかし、この止め処なく溢れる涙の理由は、それだけでは無い。

「本当に駆け出したかったのは、私自身……三十年前の私だったのね……。」

涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔をハンカチーフで拭うと、私は昼前のスーパーマーケットに向かって駆け出していた。

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