第2章 独立〜21〜
第2章〜21〜
独立を決めた颯希に、またも試練が。
どうなる? バンドは…
※一部不快と感じられるかもしれない表現があります。
※字数が多くなっています。
1日の仕事を終え、颯希は足速にスタジオへと向かった。
軽い足取りで…と言いたいところだが、どうも様子が違う。
夏の終わり。スタジオ入りは18:00だが、この時間ともなると日は西に傾きかけている。
ただし、京都の夏は本当に暑い。夕刻であっても、まだ30℃を超えている。
流れる汗を拭う暇もなく、息を切らしながら、ようやくスタジオに着いた。
「間に合った?」
「おう。何や? えらい汗かいて」
「暑いやん。汗もかくって」
左手に握ったタオルハンカチで額の汗を拭うと、颯希は小さくため息をついた。
「時間はもうちょっとあるで。…やけどお前、ギターは?」
まさかの残業だ。会社を出たのが18:30頃。ギターを取りに、家に帰る時間などない。
「オーナー、すみませんけど、ギター貸してもらっていいですか?」
「会社から直で来たんか。大変やな」
そう言うと、オーナーは事務室の奥から自分のギターを持ち出してきた。
「エドワーズのレスポールタイプやけど、それでいい?」
「ありがとうございます! エドワーズ、音良いですよね?」
「まぁ、ギブソンとはまた違うけどな。俺は気に入ってるで」
この日、作業終了間際に八田が来て、颯希に声をかけた。
「日向君、残業出来るか?」
「へ? B室、残業ありませんよ」
「ちゃうやんけ。人が足らん言うとんねや」
A室? 配属後2週間は携わった。経験はあるとはいえ、今は担当外。そんな自分に残業しろとはいかに?
「でも自分、残業ないって聞いてるから予定入れてるんですけど…」
またしても課長・八田の顔が歪む。先日の休日出勤と同じだ。
「またか。予定て、遊びやろ。お前、正社員なんやから残業にも協力する義務があるんや!」
胸の辺りから、何かが沸騰するような感覚を覚える。
協力していない訳ではないし、担当外業務への時間外労働に対して「義務」を謳うのもおかしくないか?
―この男、何を考えとんねん!?
目に見えない火花が散る。
「日向、時間間に合うんやったら、頼られた思て(残業)やっとけ」
耳元で徳永が言う。
「でも…」
「分かるけどな。そやけど、どっかで折れとかんと、この課長の事やし、査定下げられるぞ」
徳永は、颯希の耳元で八田に聞こえないようにそう言った。
「そんな…」
査定だと?
酷い。本気でそう思う。しかし、八田が課長として居座る限り、徳永の言う通りどこかで折れる…言う事を聞いておかねばならないだろう。
「分かりました」
「それ、パワハラやろ?」
「俺もそう思うわ」
「けど、練習には間に合う時間やった訳やし、文句言いにくいわ」
―確かになぁ。
残業すれば、その分の手当は付く。生活費とスタジオ代、その他消耗品購入費用を考えると、有利になるのは確かだ。
しかし、人には事情がある。用事のあるなしは、課長が判断するものではない。
横で聞いていたオーナーも、思わず眉間にシワを寄せた。
「聞いてて不愉快な話やけど、部外者が介入出来る問題ちゃうしなぁ。柳井君と松山君が大丈夫やったら、今度からもう1時間遅らして取っとくか…やな。ほな、ギター取りに帰る時間は出来るやろし」
「俺らは学生やし、ナンボでも合わせられるし、構へんで」
「サンキュ。ほな、次からそうさしてもらうな」
しかし一度要求を呑めば、相手は益々つけ上がる。
残念だが、それが世の常なのかもしれない。
八田は、次の日も、また次の日も、担当外業務での残業を頼み込んでくる。
最初は「手当が付くから」と頑張ったが、次第に疲れが溜まる。
それもそのはず、12月のライブに向けて、練習の手を休める訳にはいかない。日々の労働は時間外まで強要され、それからの練習。自宅には寝るために帰るだけのようなものだ。
体力はおろか、気力までも削られていく。
「もう無理やわ。オーナー、しばらくエドワーズ使わしてもらっていいですか?」
「取りに帰るの、キツイか。そやな。使たらええよ」
とりあえず、少しは楽になるだろう。
オーナーの大切な1本を借りるのだから、気は引ける。自分の愛器で練習したい気持ちもある。
しかし、そうは言ってられない。
ところが―。
「なぁ、颯希。声出てへんやんけ」
「そ…うかな?」
いつものシャウトが聴けない。
彰人は、素早く颯希の異変を察知した。
「俺、お前の声の事思て『|Back in Black』(AC/DC)言うたけど、ちょっと辛そうやな」
剛も彰人の言葉に同意した。
「お前も『We Rock』(DIO)なんか持ち込んできたけど…」
「大丈夫やて。ちゃんと調整するし」
声が出ないのではない。出せないのだ。疲れが溜まり過ぎているのだ。
心にも、体にも。
「練習、休もか」
彰人の足が、ガタガタと音を立てて動き出す。かなり苛立っている。
剛は、彰人のその様子を見た。そして目が合った。
―自分が口を開けば、きっと颯希を傷付けるだろう。ここは剛に。
そう思い、彰人は目で合図をする。
剛は彰人の気持ちを察知し、口を開いた。
「とりあえず、落ち着け。状況を整理しよう。颯希、いろいろ溜まってるやろ? ここで吐き出せ、な」
―吐き出す。
吐き出して、何になる? 今の状況が変わるとでも言うのか?
剛はいつもそう言ってくれる。しかしそれに対する答はない。ある訳がない。学生と社会人には、その生活に大きな隔りがあるからだ。
彰人の苛立ちは、颯希に対してではない。颯希の置かれた不条理な状況に対してだ。それも分かる。
だが、颯希自身どうする事も出来なくなりつつあるこの状況に、心身ともに崩壊寸前だ。
そしてとうとう、思ってもいないひと言を放った。
「吐き出したかて…お前らに何が分かる!?」
読んでいただき、ありがとうございます。
華奢で体力的にも弱い颯希に、容赦なく仕事を押し付けてくる課長。
辛い立場になりましたね。
ストレスを溜め込むって、自分だけでなく周りも巻き込んで、不和を生み出す事があります。
上手く放出しながら、かつ上手く付き合う事が大切。
それも分かるんだけど、若いとつい頑張ってしまうのかも。




