88.遠征の日
ヴェスタル宮殿に帰ってきてメアリの部屋に向かっていたら、執務室の扉がおもむろに開いた。
中から出てきた人物は、宮殿では数える程しか会ったことのない人物、宰相だった。
私に気づくと露骨に嫌そうな顔をする。どうやら私はかなり嫌われてしまっているらしい。
宰相はそのままずんずんこっちに向かってくると、私の前で立ち止まり
「どけ!」
と威圧してきた。
私はその瞬間、むっとしたけどわきに寄ろうとして──
「恐れながら申し上げます。キョーコ様がお譲りになる必要はございません」
とファティに止められた。
「ふん」
宰相は鼻で笑うと、私の肩に触れるか触れないかの距離ですれ違って行く。
「くれぐれもお忘れなきよう。レクス様があなた方をお選びになったからといって、それは不遜に振る舞って良いという意味ではないことを」
ファティのその忠告に、宰相は歩みを止めて振り向くと
「なんだと! 我々巫女家を召使いごときが愚弄するというのか。我々は確かにレクス様にこの国を譲り受けた。だが今までこの国を維持し、ここまで発展させたのは我々なのだ」
と激情に駆られたのか、口から泡を飛ばす。
「あなた方程度に可能だったことを、レクス様では不可能と仰っしゃりたいのでございますか? 自惚れないことでございます」
ファティの言葉は辛辣を極めていて、その瞬間、以前の私だったら耐えられると思えないほどの緊張感に包まれた。
──そんな中、私は一瞬心臓が跳ねた。
メアリが急に私の左腕を掴んできたから。その顔を見るとすごく不安そうな表情を浮かべていた。
宰相を見るとまるで復讐相手を前にしたような顔をしていたけど、意外にも何も言い返すこともなく、その場を立ち去った。
「大丈夫?」
私はまだ緊張が解けていないらしいメアリに声をかけた。
「はい。大丈夫です。少し驚いてしまって」
「そうだよね」
「申し訳ございません。決して看過できないことをあの方が仰ったので」
ファティが私とメアリに頭を下げた。
「確かに叔父様の言動は少し行き過ぎていました。申し訳ありません。キョーコ様。ファティさん」
「メアリが謝る必要はまったくないよ」
「いえ、私は巫女家ですから」
下げていた頭を上げて、私を見たときのメアリの表情は、まるで巫女様を彷彿とさせるものだった。
メアリも私にはとても想像できない重責を、その小さな肩に背負っているのかもしれない。
「もうこの話はこれで終わりにして、行こうか」
「はい」
どうして宰相が巫女様を訪ねていたのか少しだけ気になったけど、私たちは執務室には寄らずに、そのままメアリの部屋に向った。
それから特に変わったこともなく時は過ぎていき、ついに遠征の日がやってくる。
今回の遠征は三年生最後の遠征ということで特別らしく、全生徒と教師合わせて百人以上が参加する大イベントだった。
遠征の期間は一週間ほどとメアリから聞いている。
私たちは巫女様に遠征に向かう報告をするため、執務室にやって来ていた。
「巫女様。それでは行って参ります」
「うむ。油断はするな」
「はい」
メアリと言葉を交したあと
「キョーコ。メアリを頼むぞ」
と巫女様が私に声をかけてきた。
今だにメアリを狙う黒幕が捕まっていないので、一週間も他の都市に行かせたくはないはずだけど、遠征を引き止められることはなかった。
「任せてください」
私が一言だけ答えると、巫女は満足そうに頷いていた。
ヴェスタル宮殿の扉の前ではすでにカーラさんが、馬車の側で待機していた。馭者として遠征を共にすることになったらしい。
「カーラ。これから一週間、よろしくお願いします」
「はい。巫女姫様」
「カーラさん。よろしくお願いします」
「キョーコ様。私の方こそよろしくお願いします」
私たちが挨拶を済ませたあと、ファティはカーラさんに軽い会釈をしていた。
私たちの乗った馬車がレクス貴学院の学舎まで来ると、止まらずそのまま裏手にある広場の方に向かってゆく。
広場についたとき、馬車の窓からあまり見ることができない光景が広がっていた。
様々な意匠の高級馬車が、見える範囲で数十台くらい並んで停まっていたのだ。
馬車はとても高級品で、一台一千万円くらいするらしいけど、ここに停まっているのは最高級の箱型座席ばかりで、そのお値段は一台、三千万円以上⋯⋯
でも学院生は貴族や富裕層ばかりではなく、馬車を持っていない学院生もいるはずだけど、その人たちはどうやって遠征に参加するんだろう。まさか歩きじゃないよね⋯⋯
そんなことを考えていたら、私たちの乗る馬車は他の馬車の間を進んで行き、やがて止まった。
馬車から降りると赤色をベースに金色が塗られいる、とても目立つ馬車が横に止まっていた。
その中でも特に私の目を引いたのは、ドアにある金色のゴブレット型のエンブレム。
あれは、と思った瞬間、馭者台の方から人が近づいてくる気配がしたので、私の連想はそこで止まってしまった。
その人物は正装をした紳士で、私たちの方を見ると頭を下げてから、赤い馬車のドアに向った。
私の知らない人だったので、頭を下げた相手はメアリなのだろう。
その紳士が箱型座席のドアをおもむろに開けると、中から赤いローブ姿の人物が馬車のステップにカツン、カツンと靴音を響かせながら降りてきた。
親子揃って赤色が好きらしい。その赤づくめの人物はルクレツィアちゃんだった。




