煙と踊ろう 2
「なんでこの書類はこんな書き方をした?誰がこんなことを教えたんだ?」
室内の人々がパソコンに向かって指先を器用に動かしている中、ひときわ棘がある言葉が目立って聞こえてくる。
繁忙期で張り詰めていた空気に更に嫌なものが注入されている。私は目を通していた書類から顔を上げて声が聞こえる方向に向けた。座って縮こまっている女性に対し、腕を組んで言葉を軽く投げつけるようにしている男性が見える。
「誰も教えてないだろ?なら、なんでこんな書き方をしたんだ?おかしいと思わなかったのか?」
責め立てる声を発しているのは人事部の主任となる人物である。ワックスによる形状記憶型の髪の毛がオールバックになっているのが特徴的で、新規採用社員への教育係を担っている。
人事部自体がそもそも10数名程度しかおらず、昨年度に採用されたのは1人だけなので彼の仕事の負担はそこまで増えていないのかと思っていたが、なにやらストレスが堪っている事を感じさせる、気怠げのある棘の言葉であった。
「わ、わからなかった、です。どう、かけばいいのか。」
注意を受けているのは人事部たった一人の新採用。確か名前は朝山さんだ。
毛先のはねた顔の輪郭を覆う程度の長さの髪、垂れ目でおとなしそうではあるが、話すときははっきり話す印象だった。
彼女はこの会社に転職してきたため、前職の経験を活かして仕事は出来る人だと私は思っている。しかし、今の様子を見ているとそうとも言えないのかもしれない。それとも何か事情があるのだろうか。
「わからなかったら聞けば良いだろ?聞かない君が良くないんじゃない?だって、これじゃ二度手間だ し、仕事が遅れてしまうよ。」
「……はい。」
「直してね。はい。」
そう言うと彼は彼女の机から離れていった。二人のやりとりが終わった後も室内の雰囲気はよどんだままだ。しかし誰も彼女に向けてフォローするなどの様子は見られない。
おそらく、声をかけた方が良いのか、考えて葛藤している人はいくらかいる。手の動きが止まりかけている者、コーヒーを口に運んだまま動かない者、目線を泳がせる者、この現状になにか働きかけたいと考えているのだろう。
朝山さんの方を見てみる。彼女は気を強く持っていることをアピールするように、いつもより目元に力を入れながらパソコンの画面を見つめていた。腕も人より早く動いているように見える。
ただ、その様子が私にはどうしても無理をしているように見えた。
そうして朝山さんのことを気にしているうちに会社のチャイムが鳴り響く。一斉に椅子から体を伸ばす光景が目の前に広がった。
数人が仕事にきりをつけて部屋を出て行く。その中には先ほどのオールバックの主任も含まれている。だんだん他の人たちも自分の鞄から弁当を取り出す人が現れ始めた。
朝山さんは、まだパソコンに向かい動く指先のスピードを緩めていない。唇をかみしめている。私は、ようやく書類を机に起き、財布を手にとって立ち上がった。
弁当は鞄の中にある。しかし、弁当を食べるよりも先にするべき事があるような気がした。足を動かして彼女の元に向かう。
「朝山さん。」
「……えっ!?か、課長。どうしました、か?」
「食事はどうするんだね?」
「えっと、コンビニでパンでも買おうかと。でも、これが終わってからで……。」
「集中力のいる作業だよ。まずは食事だ。来なさい。」
私は先に出口に向かって歩を進める。しかし中々朝山さんが付いてこようとする気配がしない。私は扉
の前に来たところで振り返った。彼女はまだ私を見て呆然としている。見たことのない表情である。
君はそんなに目が大きかったのだね、化粧は必要ないのではないかな。
「……あ、あああはい!はい!いきます!」
我に返った彼女は慌てて財布を取り出し私の元に向かってきた。
私はそんなにおかしな事を今しているのだろうか。
財布はいらないよ、といおうか迷ったが、コンビニに着いてから私が払ってしまえばいい話だ。
私は後ろに彼女を従えた状態で人事部の扉を開いた。
後ろから女性社員のひそひそと話す声が聞こえてくる。なお、ひそひそというのは女性社員達が静かに話している気持ちになっているだけであって、実際は通常の話し声と同じくらいの音量である。
「え、え、課長どうしたの?」
「思った思った!ていうか仕事のこと以外でまともに人と話しているの初めて見たかも!」
「あれって、朝山さんのフォローなのかな?」
コンビニは会社のすぐ向かいに位置する。まあ向かいといえども、道路を挟んだ向かいにあるので歩道橋を渡る必要があるのだが。
結局コンビニにつくまで朝山さんは一度も口を開かなかった。ずっと私の後ろを付いてくるだけで、隣を歩いてくれるわけではないようだ。
先ほどの女性社員達の話から察するに、私は鉄仮面の口べただとでも思われているのだろうか。私だって人と話すことくらい出来る。
とはいえ、以前までの私だったら、こんな行動はしなかったのかもしれないな。
すべては、あの小太りの金髪男に出会ってからだ。あの男が、名前も知らないはずの私に親切に教えてくれたように、私もこういう行動は割と抵抗なく出来るようになれたのかもしれない。
別に以前も人に関心がなかったわけじゃない。でも、心配だという気持ちだけで、行動はしていなかったかもしれないな。
私が一人で内省している間に、結局朝山とは一言も言葉を介さずコンビニの中に入ってしまった。
ここは私の住む住宅街にあるコンビニとは違う種類のコンビニなのでラインナップも異なる。私はおもわずレジの向こう側に大量に陳列されたものに目がいったが、今回の目的はそれではない。
「朝山さん。」
「ひゃい!?」
「驚きすぎだろう……。」
朝山さんはすこし怯えるようにして財布を胸に抱えていた。
やはり私のイメージは他社員にとってあまりいいものではないらしい。いままで気づかなかったのが恥ずかしい気持ちになる。妻がいた頃は、妻以外の事なんて気にしていなかったし、妻がいなくなってからは他人に思いをはせる余裕なんてなかった。そういうことだと思う。
「何を食べるんだい?」
「え、えっと、いつもこのジャムパンと、このカレーパン、です。」
「うん。他には、いるものは?」
「え、も、もしかして奢ってくださるんですか!?」
「言ってなかったかな。そのつもりだよ。」
朝山さんは酷く驚いていた。すぐに自分で口元を押さえて周囲を見回している。
自分で思ったよりも大きな声が出てしまった自覚はあるようだ。私は彼女を横目にジャムパンとカレーパンを手に取りレジに向かった。
「す、すいません!そんな、奢っていただくなんて……。」
「いいよ、気にしないで。」
彼女はまだ何か言いたげだったが、私は気にしないふりをして会計を済ませた。
そしてコンビニを出て行く。彼女は相変わらず私の後ろを付いてきている。
歩道橋にたどり着く前にいったん足を止め、彼女に話しかけることにした。
「朝山さん。」
「はい!?」
「えっと、はい。さっき買ったやつ。」
朝山さんは相変わらず目を丸くしたまま受け取り、少し経ってから「ありがとうございます」とだけ言った。うつむいているので表情は見えないが、絞り出したような声だった。
なにか、感情を抑えている。私はそれが気になって仕方なかった。
このまま仕事に戻してしまっては、私がこのような行動をした意味がない。
「主任さん、厳しい?」
「……いえ、そういうわけでは。」
「質問しにくかったの?」
「いえ、あの、主任に問題があるわけでは……。」
と、いうことは、彼女は自分に問題があると感じているわけだ。先ほどから次第に彼女のこえが暗くなってきている。
「そうか。じゃあ、とりあえずいこうか。ご飯を食べながらでも、書類の書き方を教えてあげるよ。見てた感じ、主任さんは君にまだ教えてないでしょ?」
「……なんで、そこまでしてくれるのかわかりませんが、大丈夫です。自分で、出来ます。」
「主任さんに聞きに行ける?」
「……、」
彼女は応えようと口を動かしたが、声がでていなかった。すぐに口をつぐんでしまい、それから少し待ってみたが何も言わない。
彼女は、私の助けを拒もうとしている。私が信用できないから、ではないと思う。彼女の声音からは自信、いやプライドに近い何かを感じられる気がする。
人事部で採用面接をしているとき、私は人の声音の特徴をなんとなく聞き分けられるようになった気でいた。
あまり人と積極的に接するわけではないから、相手がどんな人間か分かったところで接し方を考えていたわけではないのだが、採用面接の際、相手が話している言葉が、本当にその人の言葉かどうか、注目して見ていた頃があった。
「じゃあ、先に人事部の部屋に帰っててくれる?パン食べてて。ちょっとよってくるところがあるから。」
「あ、はい。」
彼女のいまの返事には少し落胆の気持ちが隠れている気がする。気がするだけだ。しかし、今私がしようとしていることを促進するには十分であった。
私が向かうのはこの会社の屋上。喫煙所である。