煙と踊ろう 1
※本作はネット小説として投稿しているため、行間を大きく開けております。行間がないものをお読みになりたい方は、セルバンテスにてお願いいたします。https://cervan.jp/story/p/8353
煙草を吸い始めてから、私の日々の活動範囲や内容は広がっていった。
煙草を吸うことで気分が良くなり、自宅で何かしたい気持ちが湧き上がってくる。家に吸うことが多いが、気分を変えたいときであったり気が向いたときには私は外に出る。
あの金髪の男に教えてもらった場所に向かうのだ。そこで名も知らぬ誰かと出会う。何かを話すことはほとんどないが、この人も喫煙者なのかと思考するのが少し楽しい。
繁忙期である人事部の苦行を終え、晩ご飯を持って帰宅する。もちろんコンビニで購入した弁当である。
自室に戻り、まずは食事を済ませる。以前であればそこで私の一日は終わっていた。あとは風呂に入りベットに潜り込むだけだ。
しかし今は違う。食事の弁当柄をコンビニの袋にしまい持ち手をくくる。
そして机の上に鎮座する重く冷たい皿を目の前に引き寄せた。腰を上げるのが面倒なので、多少無理に腕を伸ばしてでも座ったままその動作は行う。たまに腰骨が悲鳴を上げているのを聞き、身体の衰弱を年のせいだと心の中で吐き捨ててみる。
私は右ポケットにしまっていた箱を取り出す。もう見慣れたものであった。
会社で吸いたいと思ったことはないが、常に携帯しておくことで私が喫煙者になったことを自分自身に自覚させる。なりたいなどと思ったことはさらさらにないが、今は少し誇らしくも感じている。
煙草の魅力を知らぬ人々が多い中で、私はマイノリティとして煙草を好む、どこか特別な存在になれた気分だったのである。
机の上に置きっぱなしであったライターを手に取る。もうオイルが減っていることが分かるくらいには使っていた。そのことが、より私の自尊心の肥大化を加速させていく。
唇の先に煙草を触れさせる。ポケットに入っていたためか微かなぬくもりを感じる。私はそのまま少しだけ唇を突き出しそれをくわえた。
火をつける。そして煙草の先端にめがけてゆっくり移動させ、炎が撫でることができるところまでやってきた。
炎が触れる。それの先端が色を変えた。火を消して、ほんの少し吸い出す。すぐに私の口内にはミントの香りが広がり、煙草を吸った刺激が脳内に電撃を走らせた。
申しておきたいのは、おいしいという感覚ではないということだ。
私はまだ煙草をおいしいと思うニコチン愛好家になっているわけではない。しかし煙草を吸うことが出来る人間としてのアイデンティティを形成したためにここまで煙草を愛することになっているだけだ。
誰にこのことを話すわけでもないが、こうして自分の中の気持ちの変化を認識している。
ひとしきり楽しむと、私は気持ちを落ち着けて汚れた空気の中で深呼吸した。体を床に預け、天井を見つめる。天井はヨゴレを知らない白さをもっていた。
「テレビを見よう。」
私を自分を奮い立たせるように言い放った。テレビなど長らくつけていない。
しかし、今は良い気分である。このまま眠るのは少しもったいない気がする。
眠れば朝が来るが、朝と共にやってくるのは仕事なのである。夜が来れば光は去って行くが、同時に仕事も去って行く。山の彼方で隠居でもしていてくれ。
テレビの前のソファに座った。少し埃が舞ったが、今はそれがソファから私への久しぶりの挨拶のように感じられる。少し手でソファをたたいてみるとまた細かな埃が舞った。
「今度、掃除してやるよ。」
テレビのリモコンはソファの前にある大きめの木造机の上に狛犬のごとく座っている。私は帰ってきたぞ、愛犬よ。
テレビの電源スイッチを押した。映ったのはバラエティ番組、あまり知らない芸人達が議論を繰り広げている。異聞のキャラクターに対するイメージの話をしているようだ。
今は小太りで角刈り、声が大きいというとても特徴的な人が議題となっている。見覚えはないが、悪い人間には見えない。社交的という私のイメージが形成された。
しかしその人は世間からはかなり悪いイメージを持たれているようで、それを払拭するためにはどうすれば良いか、という方向に議論が向かっていった。
テレビなど、いつから見ていなかっただろうか。
そもそも、こんな大きなテレビを購入したのは元妻にせがまれたからだ。彼女は度々テレビを見てはそこで得た情報を私に聞きとして話してきた。面白い番組があるといって一緒に見たこともあった。
私はテレビよりもテレビを楽しむ彼女と一緒にいるのが好きだった。
それがきっと彼女には伝わっていなかったのだ。『あなたは私の話を聞かない』とよく言われたものだ。そんなことは無いのだけど、彼女の話の内容よりも、そのとき楽しそうにしている彼女に目がいくのだ。
しかし内容を忘れてしまうものだから、彼女からすれば聞いていないと思うのだろう。
今更、そのことが反省された。面白いじゃないか、テレビ。
その日、私はいつもよりずっと遅くに眠りについたが、心は穏やかであった。眠れない日々はどこかに去ったようである。長らく洗っていない布団がやけに暖かく感じた。