去るもの、出会うもの 4 (終)
握りしめたそれを離さぬよう、胸の上にかかえるようにしてコンビニを出た。
後ろから男女の声が私の背中を押す。再び息が白くなって空に上っていったが、肌を刺す風は私を振り向かせることが出来ていなかった。
それは、ほんとうに軽かった。買うために払った硬貨の方が重く感じた。
硬貨を渡した手に置かれたのは手でぎりぎり握られるサイズの直方体の箱。意識してみたこともない絵柄、意外に誰にでも好かれそうな見た目をしているなと感じた。
道を進みながら、箱を開いてみる。
十本ずつ、横2列に整頓された白い棒達が目に入る。
綺麗な棒であった。つついてみたら柔らかい。これ一本で、私の命は、どれほど削られるのだろうか。
足が止まる。私は箱の中に並ぶそれを一本指でつまんだ。驚くほど軽かった。ここからどうすれば良いのだろうか。口にくわえてみる。
そうして気づく。そうか、火が必要なのだ。この口でくわえていない方を火で炙って煙を吸い込むのだ。
そうなると、いますぐには不可能である。私はライターなど持ち歩いていない。家に帰ってもあるかどうかは分からない。
まともに使うことのないキッチンの火を使うときが来たか、足を進めようとしたとき、前から声をかけられた。
「すいません。もしかして火ぃないんすか?」
「え?」
私に声をかけたのは先ほどコンビニで見た小太りで金髪の男であった。
相変わらず人相の悪い男ではあったが、悪意のある言葉かけではないと察した。火、というのは私が今欲していたもののことだろう。私は口にくわえていた白いそれを手に取った。
「まあ、そうですね。ない、んですよ。ははは。」
「貸しますよ。つうか、こう言っちゃなんですけど、こんな道の真ん中でタバコ吸ったら迷惑なんで、向こういきましょう。」
彼は私に付いてくるように促し、先に私が来た道を歩き始めた。つまり、家に帰る道とは逆方向である。それでも私の足は彼の後について歩いた。
私は彼の言葉に意表を突かれた。私の彼に対する印象は説明するまでもない。
そんな彼から、私は、いわゆる分煙の教育的文句をぶつけられたのである。
まさか私がこのような立場になるとは思っていなかった。分煙に関して配慮がなかったと反省すると同時に、他でもない彼に指摘されたことに対し、すこし納得いかない気持ちを抱えたまま彼の後ろを歩く。
彼からはタバコの特徴的な香りが漂っていた。
私と彼の距離は2メートルほどだ。これほど離れていても匂うのだから、彼が電車にでも乗ろうものなら誰もがその臭いの根源を探すために目を動かすだろう。
そうして彼をにらみつけるだろう。彼がそれに気づくだろうか。そして傷つくのだろうか。
いかん、私は差別主義者ではない。こんな思考をして良いわけがない。人の上に立つ者として、あるまじき思考であった。反省するべきだ。
私はポケットに入れた手を強く握った。その手の内にはまだ一本のタバコがある。
なんだか、先ほどよりも柔らかくなってしまっている。もしかしたら、もうダメになっているかもしれないな。高かったのに。これでいくら無駄にしただろう。
彼は目的地に着くまで何も話さなかった。彼から発せられた音は、時に彼が自分の頭を掻くボリボリという音だけである。
どこまで行くのだろう、私の住む住宅街とはもうかなり離れている気がする。あまり来たことがない場所を歩いていることに不安を覚える。
もしかしたら良くない人簿所に連れて行かれるのではないだろうか。
私が不安を募らせて口にしそうになったとき、彼の足が止まった。
「つきましたよ。ここ、最近出来たんすけどね。」
彼が私を振り返りながら指さす。そこには一つの四角い、ガラス張りの、コンテナのような小さな建物が一つ、ぽつんと立っていた。
横幅は3メートルほど、奥行きも2メートルほどしかない。周りには別の建物が建ってはいるが、その小さな四角が異様な存在感を放っていた。扉はレバーハンドルが取り付けられ、手動であることが分かる。
その扉には緑色の喫煙所のマークが大きくペイントされていた。
「喫煙所、ですか?」
「そうっす。まだあんまり知らない人の方が多いみたいで。俺はよく来るんすけど、すいて
て良いですよ。おっさん、俺と同じタバコの銘柄だったんで、特別っす。」
そう言って彼は大人っぽい笑みを浮かべた。私は彼の心遣いを少し不思議に感じていたが、なんとなくその気持ちを察した。
彼が喫煙所の重そうな扉を開く。私は彼に促されるままにその中に入っていった。
質素。簡素。という印象だ。しかし狭い。清潔感が非常にあるが、とにかく狭い。
私と彼が入れば、すでに半分ほど空間は埋まっている。この空間に何人も集まってきてタバコを吸うのでは堪ったものではない。
「小さいっすよねえ。分煙、分かるんすけど、ここまでやらなきゃダメなんすかねえ。」
彼は私の気持ちを察したように話した。
言われてみれば、喫煙者が喫煙するスペースはどんどんなくなっていっている気がする。今はテレビなどあまり見ないが、禁煙に関するニュースを前はよく無関心に眺めていた気がする。
「おっさん。ほい、火。」
「あ、ああ。ありがとう。」
彼は私に小さなライターを手渡した。内部の液体が透けて見える。もう半分ほどに減っているのがわかった。
私は変なプライドが働いてポケットの中で握っていたタバコを離し、慣れたように箱から一本取り出した。慣れたように見せただけで、実際は不格好に見えているのかもしれない。
彼は私の方を注視しているわけではなかったが、私は変に彼を意識していた。
口にくわえて、火をつける。火を、ゆっくり、おそるおそる、先に当てる。
どのくらい当てれば良いのか分からなかったが、あまり当てすぎると燃えるかもしれないと思い2秒ほどに留めた。幸い、しっかり炙ることが出来たようだ。
私は、ストローから飲み物を吸い出す要領で、タバコから煙を吸い込んだ。
「うっ、げほ!ごほ!おえっ。はー!はー!」
「は?おいおいおっさんどうした。火つけたやつ落とすなよ。床が汚れる。」
思ったよりも煙を吸い込んでしまった。しかし、なんだこれは!?
辛いのだ。煙を吸い込んだはずなのに、のどを通してしっかり味を感じる。風味というのだろうか。
辛い!まだ喉に無理矢理辛いソースを直接注入されたかのような感覚である。
肺の奥まで入り込んだものをはき出そうと無理矢理息を吐く。
彼は冷静だった。私が吐き出した一本のタバコを拾い、設置型の灰皿に入れた。
「おっさん、どうした。大丈夫か?ていうか初めてか?この銘柄。」
「……すまない。煙草そのものが」
「おいおいまじか。そりゃあそうなるわ。ははっ、涙目だぜおっさん。ほら、ティッシュなら持ってるから、やるよ。」
彼は馬鹿にしている様子ではなかった。呆れと皮肉を含んだ言葉ではあったが、そこには新規採用者をねぎらう上司のような精神が感じられた。
もう私のプライドは崩壊していっている。悪態の一つでもつきたい気分であったが、そんな余裕はなかった。甘い空気を吸いたい気分だ。
「おっさん。これは結構上級者向けの煙草だぜ。なんで煙草を吸おうと思ったのかは知らねえけど、まあ、縁だ。うん、縁。煙草のこと教えてやるよ。なんも知らねえだろ?」
ここまで来たら、彼に弟子入りしたいくらいだった。私は新たなプライドを生成するために彼に習うことにする。上級者向けと言った煙草を彼は持っている。ということは、彼は上級者なのだ。
私は上級者の彼に煙草について教わったことをプライドとして持っておくことに決めた。
なんだか、嫌な気分ではない。私を見て笑っている彼を見ていると、この縁を消すのが少しもったいなく思えた。
――もう少し、話していたい。
ここまで私を苦しめた煙草というものが、どういうものであるか、聞いてみようではないか。私は口元をいびつに歪ませ、彼に笑い返した。
「よろしく頼むよ。……げほっ。」
「まあまずは水でも買いにいこうや。」
めっちゃこのおっさんとおにいさんのやりとり好きです。