灰がたまりすぎたので 2
今田の様子がおかしいことに気づいているのは、きっと私だけなのだろう。なぜなら、共に過ごす分にはその変化は分からない。いつも通り皆を笑わせ、朗らかな空気で人事部を盛り上げてくれる。
しかし、私は課長であり、皆の仕事をチェックする役割を担う。今田の仕事は全く進まないまま一日の仕事は終わろうとしている。このままでは残業をしたとて、提出できるのは明日か明後日か。
決して終わらせることが出来ない量を割り振っているわけではない。だが、明日も明後日も、緩やかなペースで仕事は増えていく。今田に仕事が割り振れないのは人事部的にも痛手である。
時計の針は就業時間の三十分前を指している。すでに本日分の仕事が終わったメンバーが、仕事終わりのコーヒーを飲みながら羽を伸ばしていた。かくいう私も、机に頬杖をついて皆の仕事を眺めているくらいには余裕がある。次長に関しては寝ている。
ふと思いつき、白紙にメモを書いて今田の元に渡しに行く。今田がわたしのかおを伺ってきたが、私は目も向けず、その机の上に紙を置いた。今田はそちらを5秒ほど眺めた後、不安そうな顔で私を見つけた。私は二カッと笑いかける。何がそんなに不安なのか分からないが、私がメモしたのは「今日、すずらんにて飲み会。二人で。できる?」という内容。今田はしぶしぶ紙に「了解です」と書き込んで深い息をついて頭を抱えた。
今田はきっと、私に結婚について追求されると思っているのだろう。その通りである。私は少し楽しみになって、唇をわずかにつり上げながら席に戻っていった。
「課長……上機嫌じゃない?」
「なに、どうしたのかしら。」
「朝山ちゃん、何か知ってる?」
「ど、どうして私に聞くんですか!?」
遠くでひそひそと話している声が聞こえてくる。皆が苦笑しながら私を見てきた。もう慣れているから、気にしなくていい。そうアピールしようと、皆に向けて手を軽く振った。
案の定、今田は仕事にキリが付かず、中々会社から出てくることが出来なさそうだった。私は先に『すずらん』へ歩みを進める。外灯が頼りになるくらい道のりを一人でずんずん進んでいく。もうこの道も自分になじんだものだ。今田に紹介されてからすっかり気に入ってしまった。多くの店がシャッターを下ろしている中で、『すずらん』の行燈は赤くきらめいている。
「いらっしゃーい!なんだ、あんたかいな、課長さん。」
「どうも。スズさん。」
「今日は人も多くないでな。すきなとこにどうぞ。」
狭い店であるが、いつもはもっと活気があって人口密度がドンでも無い事になっているのだが、今日はやけに少ない。カウンター席で一人、ハイボールをすすっているおじさんと、奥の方で座っている夫婦くらいだ。
「なんで少ないんです?」
「もともと知る人ぞ知るって店だかんね。別に有名店でもないんよ。常連客が今日はみんな来てないだけ。忙しいんでねえか?」
何度か頷きながら今田と座れそうな席を探す。すると、今まで一度も座ったことのない座敷が二机だけあることに気づいた。ここならある程度のんびりしていても良いだろう。どうせもうしばらくは今田がこない。
私は座ってからスズさんにビールを大声で頼み、腕を後ろについて息をついた。やがてお通しのポテトサラダと共にビールが届く。「あとで今田もくるんで」と伝えておいた。
お通しのみでは今田を待っている間に身体がひからびてしまいそうであったので、加えて焼き鳥と唐揚げを口頭で頼んだ。ついでにビールをもう一杯。酒が進む。すずらんに来たはずなのに、自分の声ばかりが響いて違和感しかなかった。
しかし、こうして落ち着いた居酒屋も良い物である。この曜日のこの時間は人が少ない。覚えておこう。
私が幾度かおつまみと飲み物を交換したところで、ようやく今田はやってきた。じつに1時間以上が経過している。さすがに焦ってきたようで、息を切らしながら店の扉を勢いよく開いていた。
「おっそいよーあんた!課長さんを待たせんじゃないよ!」
「ひーすいません課長!スズさんビールと焼き鳥おまかせ5本!」
スズさんが笑って「はいよ」と応える。大きく息をついた今田がこちらへ申し訳なさそうに向かってきた。
「遅かったな。もうだいぶ食べてしまったよ。」
「た、食べ過ぎでは……。」
机にはすでに何も置く隙間がないほど皿が広げられている。その上は挙って空である。すべて私が食したのだ。今田は若干呆れを含んだ苦笑を浮かべながら対面側に座る。重い腰を下ろすようにしているのを見ると、かなり疲れているようだ。
「お疲れさん。集中できなかったか?」
「……まあ、そうですね。すいません。」
「いや、別にいいさ。繁忙期だったら少し焦らせていたが、今ならまだいい。それよりも、お前のことが心配だよ。」
私は飲みかけのビールを口元に運ぶ。小さく一口、口に含ませてすぐに机に下ろした。そんなに早くは飲めない。今日は今田と話しに来たのだから、酒で必要以上に酔ってしまうわけにはいかない。
「課長、部下と真剣な話をするときは喫煙所か居酒屋っていう独自の美学でもあるんですか?」
「いや、そういうわけでは。恥ずかしいが、ここ以外にどこが良いのか分からなかった。というより、話を聞かれることは分かってるんだな。」
「そりゃあ。最近の課長の動向を見ていれば分かりますよ。」
「私も、君の裏の顔が少しずつ見えてきたみたいで嬉しいよ。会社で話しかけても、こんな風に笑いを交えないトークを交わすことはない。」
降参です、とでも言うように今田が両腕を広げてみせる。ちょうどスズさんが注文の品を持ってきたので、ひとまず話を終えてビールをカチンとぶつけ合った。焼き鳥のタレの臭いが鼻腔をくすぐる。また頼みたくなってきた。今日の私の胃は満腹知らずだ。
「で、僕は何を話せば良いんですか?」
「結婚に関して聞きたいね。まだ君が何を不安に感じているのか分かってない。」
「……その話は、あんまり人にするもんじゃ無いと思ってるんですけどね。」
今田が少し多めにビールを口に注ぐ。そして焼き鳥の一つに手を伸ばして一気に食べてしまった。飲み込み終わっていない状態で更に一口一口と頬張っていく。やけ食いをしているようにも見えた。
正直、今田のこの姿が見られた時点で、少し収穫だった。今田にとって、私はこの少し自暴自棄になった姿を見せても良い対象には思われているようだ。つられて私もビールを口に運ぶが、あまりに濃い味が欲しくなって、スズさんに向かって焼き鳥の追加を頼んだ。今田が少し引いているが、「今日はこんな気分なんだ」といって微笑んで見せた。
「課長、朝もパンケーキ食べてましたもんね。良く食えますよあんなの。その年で。」
「ガラでもないことをしたとは思っているよ。でも、この年になって色々新しいことを始めたからね、もうパンケーキくらい、良いじゃないか。」
「別に悪いとはいってませんよ。良いですね、新たに始める勇気。」
今田が投げやりに言う。私は彼の言葉が毒を含んでいることを意外に思った。こういう言葉も言うのだ、今田は。
「やっと、離婚から立ち直れた気がするよ。」
「……ああ、課長、離婚してましたね。結婚してたこともそんな公にはされてませんでしたけど。」
「別に、言う必要も無いかと思ってたからね。こういう軽い認識だったから、離婚されたんだろうけど。」
「そうなんすか?僕はそのくらい軽い気持ちで出来たら良いなと、思いますけどね。」
そう言って今田は渇いたため息をつく。少し落ち込んでいるような表情をして、先程よりもゆったりした動きで焼き鳥を口に入れる。私はその様子をじっと見守った。スズさんが焼き鳥を準備している様子が見える。煙草よりも少し薄いくらいの煙がキッチンの方から上がっているのが見える。
「今田にとって、結婚は、重たい物なのか。」
「重すぎます。今後一生、一緒に居続けると思うと、少し気が重い。」
「付き合って長い人ではないのか?大学時代からの知り合いだろう?」
「朝の会話聞いてましたねやっぱり。その通りで。付き合ってからは長いですよ。でも、結婚ってなると、やっぱり話が変わってきません?そこに法的な拘束力が生れるわけで。そうそう別れることは出来ないし、帰ったらいつもいるわけだし。」
「嫌なのか?」
私の直球な問いかけに少し悩んで、今田は控えめに首を振る。
「嫌って、わけじゃないです。かわいい彼女ですからね、いいんですよ。でも……。」
「……でも?」
「なんか、ずっと一緒にいたら、違う一面も見られちゃうじゃないですか?」
「なんだ、家事が苦手とか?」
そうじゃなくて、と今田は頭を抱えて呻る。私は首をかしげながら今田の不安を予測していたが、なんだか自分とは違う考えを持っているように感じて、今田の心を推量するのはやめておくことにした。
自分の結婚を思い出す。音楽が好きな妻、気の強い妻。私に愛情を求める妻、それに、私は気づくことが出来なかったけれど。最近捨てた写真に写った元妻の顔が、脳裏に浮かびあがる。
「私の離婚の理由は知ってるか?」
「知りませんね。そこまではみんな知らないと思いますよ。噂こそあれど、事実までは。」
「私の、愛情表現の不足だ。」
今田が私へ瞳だけを向けてくる。私は黙ってそれを見返した。そのまま少し間を置いて再び話し始める。
「元妻はね、私にいろんな事をしてほしかったらしい。あなたの愛情が分からない。疑問をもったまま、添い遂げることはできないって言われたよ。」
「……奥さん、割と重めの人だったんですね。しかも、少しお堅い。」
「そうかもしれないけど、私は彼女を愛していた。感情の面においてはね。それが、伝わらなくては意味が無いんだろう。だから、気をつけなよ。君の婚約者、結婚だって言うのに煮え切らないって、朝、君が会社に行ってから話してたぞ。」
そうですか、と今田は何度も頷いた。真剣に考えている様子だった。スズさんが私に元に黙って焼き鳥を置く。私は会釈で礼をした。この空気感を呼んでくれているのだ。いつの間にか他の客はいなくなっている。この店にいるのは私たち二人だけだ。
「煮え切らないって、訳じゃないんですよ。」
今田が重い口を開く。先程から手をつけていないビールと焼き鳥が常温に近づいているが、気にしていない様子だ。
「僕も、彼女のことは、あ、愛してますよ。それは絶対です。うん。でも、僕が不安なのは結婚してからの話で……。」
「結婚してから?」
今田は深刻そうな表情をそのままに、俯き加減で語り始める。
「僕は、みんなのムードメーカーであろうと、ずっとしてきました。そんな僕を、彼女は好きになってくれたんです。だから、僕に期待されているのはきっとそういうことで……。でも、僕だって色々考えたりするわけで、結婚するとなると、不安とか、そういうことも正直に話した方が良いのかって思うんです。隠し事とかなしに、って感じじゃないですか、彼女も。でも、彼女は僕のそんな姿を見たら幻滅するんじゃないかって思うんです。」
弱い、うちひしがれた少年のような男だった。今田の姿は、今までのその様子からは予測することも出来ないほど、追い詰められてくじけた心を表現していた。よっぽど、不安だったのだ、自分のキャラクター故に誰にも相談できずに、彼女から結婚の話だけが進められて、不安だっただろうに。だが、
「今田、彼女が、今朝、お前が一人で会社に向かった後、知り合いの男にお前が浮気してるんじゃないかって言われてたぞ。」
「ええ!?そんな、するわけない!」
「だが、彼女からすれば今のお前は自分と向き合ってくれない人だろうから。そう思われても仕方ないだろう?私と同じだ。愛情が伝わらないんだ。」
「そ、そんな……。」
「彼女、その男に浮気のことを言われて、あの人はそんなことしないって言ってたけどな。」
今田が顔を上げる。目元が微かに潤んでいた。すこし安堵したように口を半開きにしてこちらを見ている。
「彼女、お前の悩みを聞かせて欲しいって言ってたよ。お前の不安に、寄り添いたいって。だから、言ってみたら、どうだ?」
人間って、どうしてこう、一人で悩んでしまうかな。私も今田も、元妻も。何も言わずに、答えが出ない問題で頭を抱えて。結局、どうにもならなくなってしまうんだ。いつもと違う何かをしてみよう。人に話してもいい。パチンコにでも行って良いんじゃないか、カウンセリングでも受けてみるか。新しいものと出会うことで、光が見えるようになった私が言う。
煙草の吸い殻みたいな、灰の吹きだまりみたいな、いろんな心の鬱憤がたまりすぎたら、やっぱりどこかに捨てに行かなくちゃ。




