煙と歩んだ先で 6(終)
気分が上がったまま、玄関の扉を開いた。今日は何も晩酌に使うものは買って帰っていない。
しかも、買い物に出かけたはずが朝山さん一家に連れ去られてしまったため、なにも購入でき
ていない。まだ私に料理は早いということか。
空っぽの冷蔵を見てから水道水をコップに注ぐ。飲み込むと、少し昂ぶっていた気持ちが落ち着いてきた。深い息をつく。
それにしても、本当に、あの金髪男、よかったなあ。
リビングに出て、ソファに座った。広い部屋に一人なのだが、なぜか一人という気がしない。
気分が乗るままにテレビのスイッチを入れた。きらびやかな舞台の上で、MCと思わしき男性が曲の紹介をしている。
「次の曲は、フランツ・リスト作曲、『愛の夢』。『おお、愛しうる限り愛せ』という詩を基として書かれたピアノ曲となります。作詞者、作曲者ともに、この曲に込めた思いは大切な人への思い。」
長々とその男は語る。私はその作曲者のことも作詞者のことも知らない。ピアノさえあまり詳しくない。元妻が語っていたことも、今ではもうあまり覚えていない。以前までは覚えていたような気もするのだが、もう思い出せなくなってきた。
『愛しうる限り愛せ』というのは、どうも情熱的な話だ。金髪男に言ってやりたい。あと、今田にも。
恋愛的な曲なのかな、と想像しながら演奏の開始を待つ。ようやくMCの語りが終わり、舞台照明が暗くなる。真ん中に位置するピアノへスポットライトが当たった。
そこへ、髪の毛がぼさぼさのように見える、初老の女性が座った。腰が曲がっている。意外だった。もっと若い人が弾くのかと思ったのに。
女性が、演奏を始める。思った以上に静かな曲だった。温かに、緩やかに演奏されているその曲は、愛の情熱では無く、『愛の夢』だった。もうそこに無いような、どこか遠くにあるような、そんな愛に手を伸ばしているように思わせる曲。女性の指は、すごいスピードで鍵盤を押しているはずなのに、どこか踊っているかのような、優雅な動きだった。
私は、視界の端に映っていた、元妻との写真を見る。ふっと笑った。そうだよな、もう終わったんだ。あいつとは。
私は写真立てを解体し、中に入っていた写真を丁寧に小さく折りたたみ、ゴミ箱に入れた。
ゴミが溜まっている。そろそろ捨てに行かなくてはならない。部屋を見回す。もう、元妻のものは何もない。
本当に、何も無くなった。
部屋にある灰皿から、少しだけ会った亡骸をゴミ箱に流し入れる。たたんだ写真はもう見えなくなった。終わったんだ。力が抜ける。なぜ今更、こんな喪失感が現われたんだろう?
私は妻と離婚したくなかったんだな。ずっと、再会を夢見ていたのかもしれない。『愛の夢』が教えてくれた。
演奏が終わり、拍手が沸いている。会場に座っていた人々が一斉に立ち上がり、拍手を演奏者へ浴びせた。演奏者はもともと曲がった腰を更に曲げて一礼する。そして、ゆっくり、たどたどしくステージから姿を消した。
その背中へ私も立ったまま拍手を送る。この、音楽を楽しめるようになったのは、絶対に元妻のおかげだ。君との結婚は、絶対に無駄では無かった。今までありがとう。今更だけど。
ベッドに身を投げた。洗濯して綺麗になったベッドは、逆に今までとは違う香りがして違和感がある。部屋も綺麗に片付けられて、いつでも人をここに呼んでこれそうだ。
そうだ、ここに、今田を呼ぼう。あいつに教えてやるんだ。結婚の素晴らしさを。
フランツ・リストの「愛の夢」、是非調べてみてください。作者の創作背景を知ると、もっと楽しめるかもしれません。
さて、今回は短くて申し訳ありませんでした。場面転換の都合で、ここで切らせていただきます。次始まるのは最終章となります。ついに終わりが始まります。妻との離婚をやっとの思いで受け入れることが出来た主人公。今度は、人のために頑張ります。




