煙と踊ろう 8 (終)
「で、ここに至ると。」
私は仕事にならない勤務を早々に切り上げ、その日は定時に会社をあとにした。
家に帰り、気分を落ち着けようと煙草をふかすも、思考はまとまらないばかり。ぐるぐる巡っては、どこに着地するのか分からないままであった。
私は結局落ち着きそうにない心を抱えたまま眠ることも出来ず、きっと閉店間際だっただろう『すずらん』へ足を運んだのだ。
「……どうすればいいですかね。」
目の前に出されたカクテルに手もつけずに私は調理場で洗い物をするスズさんに問う。
ずいぶんスズさんを信用しきったものだと自分でも思う。しかし、今となっては頼る相手もおらず、泣く泣くここにたどり着いたのである。いくらなんでも、城田主任や今田などの年下の部下達に恋愛相談などできはしない。
スズさんは冷たい声で言う。
「余ったれんじゃないよ。酔った勢いとはいえ、女を勘違いさせる男は罪深いよ。しかも、そのお嬢ちゃんの様子じゃ、本気にしちまってるんじゃないか。」
「……吸って良いですか。」
私はおもむろに煙草を取り出してスズさんに掲げてみせる。スズさんはため息をつきながら、勝手にしな、といわんばかりに腕を振ってみせた。
火をつけて吸ってみる。気分は落ち着くが、すぐに脳裏に朝山さんの顔が浮かぶ。解消しない悩みにストレスを感じた私は、まだ残っている一本を目の前の灰皿に押しつけ、亡骸にしてしまった。灰皿の上には、前の人のものをたくさん乗っている。
「あーくそ……。」
「なんでお嬢ちゃんと話さないんだい?」
「何を話して良いのか分からないんです。」
「そうかい。そもそも分からないのがね、あんたがなんでお嬢ちゃんを助けようとしたのかなんだよ。別に仲が良かったわけでもあるまいに。」
スズさんの言葉には呆れが含まれていた。それは、職場の誰もが疑問に思ったことと同じだろう。私は、誰から見てもおかしい行動をしてしまっているのだ。
私は、変わってしまった。転機として思い浮かべるのは、やはりあの金髪の男との出会いだ。
よくわらない理屈で、私に煙草について教授してくれた。あの男から影響されて、私は人と関わる行動力を得た。おかげで、城田主任や今田と交流することが出来、朝山さんを元気づける一因を作ることが出来たのだと思う。私の行動が、誰かの助けになっているのかもしれない。
そんな私に部下達は言う。課長はどうしてしまったのか、と。
部下からどう思われているのかなど気にしたこともなかったが、どうやら冷たい人間だと思われていた節があったようだ。私は部下のことを気にかけているつもりではあったが、それが行動として表われたことは、確かになかった。
飲み会にも参加しなかったし、自分の仕事さえこなしていればよいと思っていた。それはなぜだったのか、と思考すると、元妻の顔が浮かんでくる。
私は初めて目の前のカクテルに手を伸ばした。甘い、カシスオレンジだ。大学時代からお世話になっている飲み物。買ったものによって味やカシスの濃さが違うのが気にくわなかった。
しかし、口にして分かる。この『すずらん』のカシスオレンジはうまい。濃すぎず、薄すぎず。この濃度が一番だ、このバランスを保ってほしい。
「うまいかい。」
「はい。いいですね。」
「ふん、おっさんが飲むもんじゃないよ。もっと強いの飲みな。」
「別に、そこは好みでしょう。若いも年寄りも関係ないです。」
返答を待たず、私はもう一口カシスオレンジをいただく。
いつのまにかスズさんが調理場から出てきて、私の前にある灰皿を取っていった。
「たまり過ぎちゃってたね。捨ててくる。」
スズさんが灰皿を燃えるゴミのゴミ箱へ傾ける。灰と亡骸が吸い込まれていく。きれいになった灰皿がまた私の目の前に置かれた。
元妻は、離婚を切り出してきた時、私が理由を尋ねると、迷いのない顔で答えた。
「あなたの愛情がわからない。この疑問をかかえたまま、添い遂げることは出来ない。」
彼女は、言い出したら聞かない質だ。私はその言葉を深く考えることなく、離婚を受け入れた。
話し合う余地は、きっと無かったと思う。
食い下がりたい気持ちはあったが、彼女の覚悟を決めた顔が私の喉元まで出てきた言葉を押さえた。そのとき、私は首肯するので精一杯だったのだ。
彼女が家を出て行くと、いやに広い家が寂しく映った。
さみしさに涙することはなかったが、急に家にかえってすることがなくなった気持ちになる。
私は、立ち尽くした。
家事はこれからすべて私一人でしなくてはならないし、今日のご飯だって、誰も作ってくれない。急に料理をしろと言われても出来ないと思うので、外に買いに出かけなくてはならない。思考すれば、いくらでもやるべき事はあるはずなのだ。
しかし、体は動かない。何をすれば良いのか分からない。
ひとまず、残されたソファに座ってみる。
大きなソファだ。寝転がってみる。余裕で足を伸ばせた。ここで眠るのもありかもしれない。さて、なにをしようか。何から始めようか。心が浮き足立っている。足をつく地面が見当たらない。
「あんた!なにしてる!さっきから手が進んでないよ。氷が溶けて薄くなっちまう。」
スズさんの大きな声が聞こえる。私が座っている席の後ろで掃き掃除をしていた。
目の前にあるカシスオレンジは、いつの間にか薄くなって、コップの向こう側が見えるくらいになっていた。触れると、水滴が手にべったりと吸い付いてくる。すかさずコップとぬれた手をおしぼりで拭いた。
スズさんが更に追い打ちをかけてくる。
「なにかしなきゃ始まらないよ!何もしなきゃ勝手にすべてが消えるだけさ!あなたを置いて、誰もいなくなっちまうのさ!あんたがそれでいいなら、そうしときな!」
言葉が胸に刺さる。腹痛がした。体が高揚している。何かをしないと、収まりようのない怒りに似た感情が私にわき起こった。何か言い返してやりたい気持ちになった。
しかし、元妻はいなくなった。私は追いかけることもしなかった。チャンスをくれとも言わなかった。
元妻と朝山さんが重なる。別に付き合っちまえといわれているわけではない。私は、何かをしなくてはならないのだ。
それがきっと、何かこの先に繋がっていくのだ。
「お勘定、ここにおいておきます。」
「行くのかい。まあ、いいさ。頑張りな。」
「スズさん。今日はありがとうございました。」
「……?」
やけに、元気な声が出た。スズさんも不思議そうな顔をしている。私自身も、少し驚いた。
でも、今なら何か出来る気がする。
「なんか、良い感じだね。あんた。おや、煙草、吸わなかったんだね。」
「汚しちゃいけない気がして。せっかく綺麗になったのに。」
「気なんてつかわんでええのに。」
頭を下げて、『すずらん』を後にした。街灯の少ないこの道も、今は不安なく歩けている。こ
の道を抜けた先にあるのは、多くの光に照らされた明るい場所なのだ。
煙と踊ろう 終結です。
次章へ続く。




