四月九日(日) 晴
意識の始まりは快調とは言いがたかった。
節々が悲鳴を上げている。朦朧としていながらも、目覚めた所感はそれだった。夢を見ていた気がする。
体を動かした途端に、椅子がフローリングの床をすべるようにずれたため、座ったまま寝たのだという事実に気づいた。机の上には本が開かれたまま置かれていた。
『橋の向こうの少女』
昨日借りてきた本を早速読もうとして、途中で力尽きた。
そう現状を認識すると、カーテンを開け放つ。
まばゆいばかりの光に目がくらみ、ガラスにこつんと額をくっつける。冷ややかな感触と暖かい日差しのぬくもりに、どんよりと思考を鈍らせていた空気が逃げていく。
空は昨日の雨が嘘のように晴れ渡り、日はすでに高く昇っていたが、昼時というには早すぎる。朝食は時間内に取らなかったために、すでにないと見た方がいい。昼飯はだされないため、待っていても食事はでてこない。
……結論が出るまでそう悩まなかった。
黒のジーパンと白地にティシャツのラフな服に黒の上着を引っ掛けて外にでる。
昨日とは打って変わった陽気な天候に、出かけようとする人も多いのか、銀杏通りにはカラフルな服が溢れていた。
見るとはなしに見ながら坂を下ると、一人の男に妙に惹かれた。
背はさほど高くない。小柄な体格だ。人好きそうな愛嬌のある顔立ちをしているが、平凡といえばそれまでだ。当然、知った顔ではない。惹かれるものがあるとすれば、白衣を着ている点が上げられるが、それとて奇抜ではあるがファッションの一部……だと思われる。そんなことに興味を引かれるはずがない。
だが、なぜか惹かれてしまう。
少年と目が合う。
意味ありげな微笑みを浮かべると、何事もなかったかのように視線を外して去っていった。
明らかに目が合ったというだけではない。こちらを観察、あるいは値踏みしている眼差しだった。
不思議というよりも、どこか得体の知れない雰囲気を持った人物だ。
けれど、自分とは無関係に思えた。彼の心のなにかに触れたのかもしれないが、俺はそれ以上の接触をもちたいとは思わなかった。
惹かれた以上、なにかがあるのかもしれない。だがその理由だけがどうしてもわからない。
春の陽気が生み出す喧騒にまぎれていくように、彼の姿はいつの間にかいなくなっていた。
体感的な気温という点では、雨だった昨日の方が肌寒く感じた。歩いているのか、バスで移動しているのかという違いがあるため、実際の気温と言うのは一概にいいきれないが。バスで行った道のりとは別の方角を歩いているのは、理由があっての事ではない。
ただ昨日とは逆の道を行くという意思だけ。
どこに繋がっているのかは、詳細な地図を見ていないため把握していない。
どこかにあるのだろうが、積極的に探そうとまでは思えない。ただ、心地よい風に拭かれながら、当てのない散策をしている。
それが今の俺だと、数分前までは思っていた。
「さて、いい加減現状を認識させて欲しいのだが」
少女の左手と俺の右手が手錠で繋がれているのを掲げる。鈍い銀色の光沢を放つ本格的なそれは、遊戯用のものとは到底思えない。じゃらりと垂れ下がった鎖は、どうやっても絶ちきれなそうになく、白装束の少女との距離を否応なく詰めさせる。
「しっ! これからいい所なんだから邪魔しないで」
こちらを見ようともせず、小声で脅すようにいうのに反論するのも馬鹿らしくなる。
道路の両脇に広がる森林に襟首を捕まれて引きずり込まれたと同時に手錠をかけられていた。
「しかし、お前は昨日近づくなと警告したんじゃないのか?」
その視線の先、道を歩いているのは青原と友達であろうやけにちっこい女の子と、普通のとは明らかに違う服を着た少女という三人組。
それぞれの手にはビニル袋が提げられており、和気藹々とした雰囲気で、こそこそと覗き見していても面白い光景が繰り広げられそうにもない。
「貴方の存在そのものが良い悪い関係なしに事柄を引き寄せる。夏涼ちゃんの近くにいる以上見張らなければならない」
「じゃ、接触しないから見逃してくれないか。というか、これだと強制的に近づくことになるんじゃないのか」
無駄だとわかりつつも手錠を引っ張って離れなられないことをアピールする。
「今は駄目。そんなことをしていたら見逃しちゃうじゃない」
にべもなく言い捨てて、逆方向に引っ張られているのにも構わずに進もうとして、こちらの方が慌てる羽目になる。
「というか、こんな遠くにいなくてもいいだろ。もっと近くにいればいいだろ」
なぜか一定の距離以上近づこうとせず、遠巻きに見ているだけの行動に何の意味があるんだ。
「……無理よ。嫌われているもの」
「……それは難儀だな」
どうして夏涼を見ているのか。近づくなといったのか。嫌われたのか。名前は。
いくつもの疑問が生じるが、泣き出しそうな顔を見たら口から出ることはなかった。尋ねようという気力が沸き起こらないうちに少女が立ち止まった。
夏涼たちは、森の中にある妖精の丘のように開けた場所にいた。いくつか日除け用の石で作られた囲いと、木で作られたベンチの上に猫が寝そべっている。その他にも、奇妙な石で作られたオブジェが立ち並んでいる。
白・黒・茶。とりどりの色を持った猫が、夏涼たちに引き寄せられるように近づいていく。お目当てはビニル袋の中身のようで、纏わりつくようにしながらも、前足で小突いている。
「餌か」
遠くてよくわからないが、キャットフードの類なのか、缶詰を開けて取り出している様子がかろうじて見える。
「……いいわ」
陶酔したかのように呟く少女は不気味だ。普通に笑っているのだろうが、獲物を前に舌なめずりをしているようにしか見えない。
現実逃避気味に空を見上げると、木々の葉を透かして差し込む太陽の光によってきらめいていた。
何をしているんだろうな、俺は。
ぼやきは言葉にすらならずため息に変わった。
向こうではピクニック感覚なのか、レジャーシートを敷いて、自分達用の弁当を広げている。こちらは、食事を取るつもりもないのか、じっと見つめているだけ。
「きょうもいるの? おねえさん」
いい加減解放してくれないかといようとした矢先に、やってきたのとは別の方角から幼い女の子が声をかけてきた。
「あなたが変な事をしないか監視するためよ」
振り返った少女は、俺に向けていたのと同じさすような圧迫感を与える目をしていた。
「しないよ、そんなこと。それより、みんなといっしょにたべようよ」
それがわからない女の子は首を傾げてあどけない笑みを浮かべる。両目を厚く眼帯で覆われた瞳は、何も映し出しそうにない。眼が見えないのか、治療中なのか、ファッションなのか、それはわからないが、白のステッキを突いて歩いているのは見かけだけではなさそうだ。
服は白を基調にして黒がベストのように胸元から下を覆い、たくさんのひらひらがついた白のスカート。黒のニーソックスにローファー。頭部には黒色のフリルがついていて、白に近い灰色の髪と合わさって独特の雰囲気を完成させている。
「それこそ冗談じゃないわ」
「どうして? いっしょにたべたほうがたのしいよ」
にべもなく言い捨てるのに、気分を害することがないのか微笑んだまま。
「いいからもう行きなさい。夏涼ちゃんが待ってるわ」
「うん。わかった。あの……」
「あたしのことを喋ったら駄目よ」
「……」
何か言いたそうにしながらも、結局何も言わずに女の子は夏涼たちのほうに駆けていった。
「今の女の子はいったい?」
「この先の廃墟に住んでいる女の子よ」
「どうしてまたそんな所にいるんだ」
人が住む場所とは思えない。眼が見えないのなら、なおさらそんなところにいるのは危険ではないのか。
「そこ以外居場所がないからよ。人間でない貴方にも覚えがあるでしょ。この世界には自分がいるべき場所などないのだと」
「……昨日も思ったが、その人間でないというのはなんなのだ」
「言葉どおりの意味よ。ここでないどこかに縁を持つ貴方は正しく異邦人。もといた場所にでもとっとと帰ったらどうなの」
……もと来た場所か。それこそ今更だ。
「戻るつもりなどないさ」
ここに来る時にすべてを捨てた。偽りの関係を紡ぎ続けるほど俺は強くなかった。騙し続け、隠し続けて生きられなくて逃げ出した。
「……まあいいわ。夏涼ちゃんに近づかないのなら、あなた自身の事なんかどうでもいい」
「そうだな。向こうの光景には興味ないから寝させてもらうわ」
好きなように生えている身近の木に身を預ける。まともな体勢とはいいがたいが、これ以上覗き見に付き合う気はない。外で昼寝でもしているのだと思えば、有意義だといえるだろう。
手錠をされているから、あまり遠くに行けない。幸い動き回るつもりはないのか、木蔭に隠れているだけ。言うほどには女の子も警戒していないというよりも、今この場で一番の不穏分子は俺だと判断しているのだろう。
ご苦労様といいたいところだが、拘束されているとなると笑えないものがある。
益体もないことをつらつら考えながら、小春日和の心地よい風を感じながら目を瞑る。
目覚めたときはもう夕暮れだった。
結局昼飯を食べそこねた。
……何をしていたんだろうな俺は。