四月七日(金)入学式
この物語は、ウル・シンという人物が描く舞台と密接に関わっています。
憧れの風萌学園高等部に入学できたというのに、俺こと河内輝美は逃げ出したい気持ちを抑えることができなかった。
『大嫌いです』
中学の卒業式でずっと好きだった女の子に告白して振られた。
文字にしてわずか二十八文字で語りつくせる程度の底が浅いお話。たったそれだけのことだというのに、沈みこんでいく気持ちを引き上げることができないでいる。自分はこんなにも弱かったのだと思うと、どうしようもなく嫌な気分になる。
春休み中も家に引きこもったまま、気分を切り替えることができないでいた。
そのまま式に及んだところで、気分が晴れないという事実を変えることまではできない。ちっこいなりをした、今時の小学生でももっと発育がよいだろというほど背が低い男子が新入生代表の宣誓をしている最中も、ぐるぐると『大嫌い』の文字だけが駆け回る。
終わりが見えないロンドを断ち切ったのは、照明が不意に落とされ、音を立ててしまっていくカーテンが光を奪い取っていく物音だった。
周囲から戸惑いの声があがるが、全校生徒と保護者を含めたものにしては小さい。
小規模のざわめきに答えるかのように、壇上にスクリーンが降下していく。
連続的な機械音とともに、映像がともる。
「諸君、我輩は風萌学園学園長の風萌源八郎である!」
変人がそこにいた。赤銅色の甲冑に同色の兜、黒い仮面までつけたコスプレイヤーが、軍配を振るい名乗りを上げていた。
「わしから告げることはただ一つ、よく遊び、よく学べ。以上だ」
仰々しい演出とは裏腹に、あっさりとそれだけを告げると映像が切れる。
半円形の多目的ホールに明かりが戻り、カーテンが開け放たれていく。
今のはなんだったんだ。
普通の入学式だと思っていたのに、予想外の出来事に思考が奪われる。その後、対面式などをこなして、教室へと移動する。
何事もなく進み、担任から始まったおきまりの自己紹介も聞き流していると、
「不破影美といいます。趣味は料理と格闘技です」
清涼で心地よい声に意識が現実へと引き戻される。意識して気にしていなかったというのに、つかの間気が緩んでいた。
格闘技の鑑賞と実践、料理が趣味。立ち振る舞いは武道をしているためか、柔らかくありながらも芯が入っているかのように滑らか。容姿は人によって好みが分かれるだろうが中世的であまり女の子らしくはない。
そのぶん、下級生の女子からはもてるようで、中学の頃はバレンタインの時期になると凄いことになっていた。
短く切った髪にきりっとしたまなざし。そこらの男子と並ぶほど背が高く、姿勢もいいことがあってそこらのモデルと比べても遜色はない。
そして、俺がこの学園に入学することを決意した理由。彼女と同じ学校に通うという目的、あわよくば仲良くなりたいという動機に基づいた行動。それがあの日、告白するのに至ったのは自分でも不思議な成り行きだったが、今は関係ない。
「……以上です」
時間にしてはごく短かっただろうに、回想がずいぶんと現実の時間を浸食していた。引き戻された意識は、すぐに次の自己紹介をしている菜も知らぬ人物の声を聞いてまた沈んでいく。
四十クラスもあるのに同じクラスになるのは偶然にしては悪意が満ちている。と考えるのは、邪推のしすぎなんだろう。本当に偶然というものでしかないのだから、できる限り意識しないようにするしかない。見ざる、聞かざる、言わざる。の精神で彼女と接しない。
彼女とは同じクラスだった。そう思えば何でもない。今まで知らなかった人に接するのだと言い聞かせる事ぐらいしか、春休み中はする事が無かった俺の意識は、半ば暗示に近い思い込みによって心の安静を得た。と思っていたのだが、たかが声だけなのに、意識が奪われた。
こんなので無事に過ごせるのかと、ため息をつく。
各委員長の選出を決める際に、不破が委員長に立候補した。誰も積極的になろうとしなかったために、あっさりと委員長に決まり、副委員長は真面目そうな男子が担任によって任命された。なんでも、中等部からの進学組で三年間委員長をした経験があるらしい。
見た目も相応に整っていて、不破と並んでいるところは美男美女といっても言い過ぎではないというのは、贔屓とやっかみのしすぎだろう。
無難に進行して次々と役職につくものが決められていく。その流れに参加するはずもなく、視界を彼女からそらしてなんでもない場所をみつめる。
出席番号順に並ばされた俺の席は、ちょうど縦六×横五で構成された席の一番後ろにいる。廊下側の席で、片方にしか生徒がいないのはありがたい。厄介なのは、彼女との席が近いぐらいだが、後ろにいるよりもましだったと思い込むことによって問題ない。
曇りガラスはなにも映さない。視線をそらすにはもってこいなのだが、いつまでも見つめていると気がめいってくる。
まぶたを閉じ、視界を闇に閉ざす。
周囲のざわめきを素通りさせて、意識を少しだけ表層に留めて思考を何処かへと飛ばす。
そうやって退屈な時間が過ぎるのを待った。
放課後の緩んだ空気に身を浸すことなく、足早に教室を離れる。目的があるわけではないが、同じ部屋にはいたくないだろうと勝手に判断して、こないであろう場所を探すことにした。
というのが、大元の動機だったのだが、今は頭の片隅に残る程度で関係なしに探索を楽しんでいた。
風萌学園高等部は驚くほど広い。三千六百人余りの生徒がいるのだから、規模もまた秀でて大きい。簡単に一回りするだけでも結構な時間が流れた。
俺と同じなのか、校舎内を歩き回っている生徒が幾人もいた。興味深げに歩き回っているのはおそらく、中等部からの進学組ではなく、俺と同じ外部受験者なのだろうとあたりをつける。もちろん、話しかけたりするわけがなく同じような歩調で通り過ぎていった。
一つの校舎を巡っただけで今日のところは諦めた。初日から焦ってすべてを見る必要はない上に、気力と体力が続かない。そしてなによりも、腹がすいていた。
「そういえば、どこで食えばいいんだ?」
帰りのHRの時にその話があったような気がするが、覚えていないのでは意味がない。大学の食堂かカフェテリア、あるいはどこかに行けばファミリーレストランか売店があるだろう。
高等部からそう離れていない場所にあるバス停に向かって歩く傍ら、学校から支給された簡易案内図を取り出して、そういった施設が集まっている場所を探す。
娯楽エリア、学校エリア、住宅エリア、工業エリアなどに色分けされたガイドマップが眼に飛び込み、ページをくるとそれぞれのエリアの簡易的な説明が書かれており、食事などは大学か各所属校の食堂、あるいは娯楽エリアの飲食店を利用するように書かれていた。
娯楽エリア行きのバスに乗って移動する。
車内にはそれなりに人がいた。混雑しているほどではないが、席が埋まる程度には人がいる。ほとんどが高等部の生徒であるのは時間帯や場所が所以で、女子の比率が高いのは自転車で通わないからだろう。
学校エリアと寮の位置はさほど離れていないが、娯楽エリアは遠いところにある。そのため、自転車かバスでも使わなければ少しばかりきつい距離がある。
このバスに女子が多いのもそう言う理由からだろう。
そう適当に判断すると、つり革を掴んでバスのゆれから身を護る。
女子が数人といわず集まった事による喧騒も、バスの機械的で単調な音と流れ行く景色を眺めていればさほど心わずらわれることもない。
いくつかの停留所を過ぎると、バスの中も人が増えていった。つり革の数が足りなくなるほどではないが、移動が困難と言える程度に込み合ってきた車内。
鼻腔をくすぐるさわやかな匂いに、ふと眼をやって凍りついた。
今来たのか、何時からいたのか、隣に見知ってはいるけれど、ここにいるはずのない人物に思考が固まる。このすぐに、考えることを放置する癖をなくしたいと思いつつも、どうにもならない。
何を慌てているんです?
バスの音と周囲の喧騒にまぎれて実際には聞こえないにもかかわらず、そう呟いたように聞こえた。
傍目には冷ややかとしかいいようがない怜悧なまなざし。澄ました表情は、自分には一切の非がない、慌てるほうが悪いのだといわんばかり。
どうしてここにいるのだと。
言葉が出るよりも先に、バスが目的地へと到着した。
ぞろぞろと降りていく集団にまぎれて、娯楽エリアへと足を踏み入れる。
「さて、どこに行きます」
ちゃっかりとはぐれることなくついてきた彼女が、腕を絡めてしだれかかる。
「待て、どうして当たり前のようにお前がいるんだ」
「私はパスタが食べたいですが、先輩は何が食べたいです?」
「相変わらずパスタか。俺はそれよりも、ジャンクフードのほうがいいのだが……じゃなくて」
流されるがまま、つい受け答えをしてしまう。
「私はお腹が空いているんです」
言葉少なだが、はっきりと自分の意思を伝える有無を言わさない物言いは、逆らう意欲を奪い去る。
「そうだな。後にするか」
問題の棚上げだが、話す時間はたっぷりとあるんだ。何もあせる理由はない。店を探すついでに近況を伝えあえばいいのだから。
のんびりと歩き出すことにした。
なにが面白いのか、腕に抱きついたまま歩く彼女の名前は末永梨香。中学の頃成り行きでこなした生徒会会計長の職。生徒会の後輩としてはいってきたのが彼女だった。それが出会いの始まり。紆余曲折、様々な出来事はあったのだがそれは割愛する。重要なのは、梨香はまだ中学三年で、ここにいて別の制服を着ているということは。
「察しの通り、風萌学園中等部に通っています」
なにを考えているのか読まれたのか、さも当然といった風に言う。
「どうしてまたこんな時期に」
「まだ四月ですよ。九月や一月に比べたらまだ普通の範囲です」
「それは論外だろ」
そうじゃなくて、三年になってから学校を変わるのは不自然とはいわないが大変なはずだ。
「先輩は細かい事を気にしなくていいです。私はしたいようにするだけです」
「それはそうだが」
自分で何をいいたいのかがわからなくなる。彼女の考えが読めるわけでも、どうしてここに来たのかも知らない。本当に彼女の両親の都合があるのかもしれない。……俺みたいに。
ただ、自分の意思でここにいる事を選んだのであれば、これはそれだけの出来事なのだろう。素直に受け入れよう。
「あ、この店なんかよさそうです」
少しばかり弾んだ声は、彼女のお眼鏡に叶う店構えを発見したからだった。
梨香は、味はもちろんだが、外観や内装といった要素まで気にする。外装がよくなければ味がよくても二度と行かなかった。
どんなこだわりがあるのか知らないが、無理に言語化するものでもないし、梨香に任せていればあまり外れがない。大体俺が選ぶと彼女の機嫌を損ねるため、でしゃばらないことにしている。
その店も、梨香好みの外装をしていた。イタリアの田舎にありそうなレンガ造りの建物。蔦がいい感じに這って古い印象を与える。
重々しい木の扉に手をかけて押し開ける。
店内はひんやりとした空気に包まれていて、外の陽気な気温と交じり合って少しばかり気持ちいい。
「いらっしゃいませ」
つい数時間前に聞いた、中学のころから彼女の声がするたびに耳を研ぎ澄ませて聞いていた声に体が固まる。
「二名様でよろしいですか?」
どうして彼女がここにいるんだ。
「はい」
そんなことは露とも知らず、マニュアルどおりの対応をする不破と受け答えをする梨香。
腕を引っ張られるまま俺と梨香は空いている二人掛けのテーブルの席に着く。
「今の不破先輩でしたよね。ここでバイトしているのでしょうか」
バイトか。入学式があったばかりだというのに、もう働いているのか。漫然と塞ぎこんでいた俺と違い、活発に動いているんだな。
目が知らず不破を追いかけて動く。店内はそれなりに込み合っていて、一つ一つ丁寧に注文を受けたり、いくつかのお皿を同時に運んだりとてきぱき働いている。
黒のワンピースに小さめのサロンエプロン。黒のストッキングに同色のローファー。過度にならない程度の控えめな服装は、華やかさを体現したかのような彼女すら清楚で優雅な印象を与える。
「まだ、あの人の事が好きなんですね」
「ん……そうだな、そう簡単には忘れられないな」
視線を無理やり元に戻して、彼女のほうへと向き直る。
梨香は俺が彼女の事を好きなのを知っている。というよりも、とある雨の日に告白された時に教えたのだ。梨香とはそのときに終わったはずなのだが、こうしてともに食事をする日が来るとは思っても見なかった。
いったい彼女はどんな気持ちでここにいるのだろうか。
「注文どうします」
何事もなかったかのよう、だいぶ不破のほうを注視していたはずなのに、それにはあまり触れず、普通にメニューを取り出して進めてくる。
気遣いに感謝しつつ、見開かれたメニューを見る。小さい店らしく、メニューそのものは少ない。日替わりのメニューといくつかのパスタメニュー。
「パスタあるんだ」
「見てなかったんです? 表にちゃんと書いてありましたよ。今日のパスタランチは菜の花と鮭の和風パスタに、パンとサラダ、それとドリンクがつきます」
「細かいというか、さすがだな」
店の前にでも小さい黒板があったのだろう。ただ単に店構えが気に入ってたわけじゃなかったのか。相変わらず目ざといというか。よく観察している。
「じゃ俺は日替わりピザランチ(マルガリータ)にするか」
梨香が、不破とは別の店員に目配せをして注文を取ってもらう。
いつの間にか置かれていた水が入ったグラスを手に取り、口に含む。
「ドリンクはアールグレイでよかったです?」
「ああ、問題ない」
ドリンクを指定することを忘れていたが、そつなくこなしくれる。何もいわなくても、俺の好みを注文してくれるあたり、本当に得がたい人だ。
「こうして、また一緒に食事をすることができて嬉しいです」
「そうだな。半年ぐらい、一緒に食事をするどころじゃなかったからな」
注文の品がくるまでの場つなぎ的な会話も、梨香と疎遠になってからの月日を考えれば、感慨深いものがなくもない。
中等部の様子や、卒業式の様子、入学式と同様に学園長が一言述べたなど、とりとめもない会話をした。
会話の最中に注文の品が運ばれてきた。
梨香の前には、菜の花と鮭の和風パスタ、イタリアンサラダ、エスプレッソ。俺には少し大きめのマルガリータに、同じくイタリアンサラダ、アールグレイが運ばれる。テーブルの中央にフォカッチャが乗ったバスケットが置かれる。
「ほぅ、おいしそうだな」
「期待できます」
見た目が異なるということは、味付けも異なっているだろうとあたりをつけた。意思が通じあい、それぞれ気に入ったパンを取る。
「あ、ピザを一切れ頂けません?」
「ああ。そっちのパスタも一口くれ」
「いいですよ」
等間隔で切り分けられたピザを一切れ渡し、代わりにパスタを具と絡めたものを口にする。
「少し苦いが、それがまた味を引き立てているな」
「ピザもいけますね」
等価交換が完了して、互いのペースで食べ進めていく。食事のときはあまりしゃべったりしない。
店内を流れるBGMは控えめな旋律で、聞いた事のないメロディーを奏でている。先に食べ終わった俺は、心地よく通り過ぎて行く控えめな音楽に耳を傾けながら、美味しいのか美味しくないのかよくわからない、無表情のまま食べている梨香を見つめる。
梨香との出会いから、かれこれ二年ぐらいの付き合いになるのだが、未だによくわからない。表情が変わらないというのもあるのだが、どこか一線を引かれている気がしてならない。
かちゃり。
フォークが置かれ、下を向いていた視線が俺を捉える。
「お待たせしました」
にこりともしないが、雰囲気は悪くない。まずかったときは眼があからさまなほど不機嫌になるが、今日はそれほどでもない。この分なら、聞く必要はないな。
少し冷えた紅茶を飲み干す。
「それじゃ出ましょうか」
すでに飲み終えていた梨香に促され、店を後にする。
つい桜庭の姿を眼で追おうとするのを意思でねじ伏せて、割り勘で支払いを終える。
「味はどうだった」
「……まぁまぁですね」
「珍しく歯切れが悪いな」
「たまにはそういう店もありますよ」
さらりと流されたが、それが本心だとは思えなかった。それを口にする気にはなれないけれど。
また腕をからめて歩き出す梨香の歩調に合わせて足を進める。
夕日が街を赤く染めるころ、バスに乗って帰る事にした。
娯楽エリアに向かったときと違い、バスの中はまばらだった。適当に歩き回っただけでは、日が暮れてもまだまだ回りきれなかった。
梨香と別れたのは、途中で立ち寄った停留所だった。同じ年頃の女の子が次々に降りていく所を見ると、中等部の女子寮はこの近くにあるようだ。
突然の出会い……か。
一人になると胸が締め付けられる。何もしていない時間というのは、胸が苦しくなるだけの空虚さに満ちている。
気にしまいと思っているのに、ただ存在しているだけの彼女に出会っただけでこの体たらく。ウェイトレス姿を見れたのは、僥倖といっていい。梨香と同伴していなかったら、事前に知っていたならば、俺は訪れることができたとは思えない。
目に焼きついて離れない。まだそう感じるあたり、ぜんぜん吹っ切れていない証なのだろう。
白のエプロンがアクセントを添えた漆黒の少女と同時に浮かぶは大嫌いの言葉。振られた理由はわからない。そこまで嫌われていたという自覚すらない。好かれていたかといわれたら、それも否定するしかないが。
ただ昼飯を食べるはずだったのに、予想外の出会いに翻弄された一日だった。桜庭と同じクラスになったこと、バイト先でも遭遇したこと、そして梨香にであったこと。
最後のはけして悪い気がしたわけではない。むしろ一人きりになっていたらどれだけ気持ちが沈むことになるか。それを思えば、梨香との再会はよいものだった。
梨香と一緒にいた時間は、何も考えないですむ。ただ喋り、笑い、共感するだけで済む。一言で言えば居心地がいいのだろう。
それ以上でも、それ以下でもない。どうしようもなく半端な関係。けれど、それがどうしようもなく心安らぐ。
虚ろにさ迷う思考のままバスを降り、寮へと続く銀杏並木道を歩く。新芽が出たばかりの初々しい木々も、日が暮れてから吹き始めた冷たい風にさらされて寒そうに震えている。
銀杏並木を見上げると、聳え立つ建物と満月へと向かいつつある月が懸かっていた。
まだ冬を偲ばせる空気と、春らしさを含んだ光景は、定まらぬ心のように思えた。