Prologue
魔王の死んだ目が俺の顔を睨んだまま止まっていた。
ピチャリ、と音。
それ以外は無音のまま。
勝利のファンファーレなんて流れない。
仲間の歓喜の声も聞こえない。
振り返ったって、魔王の獄炎に焼かれて炭となったモノがあるだけだ。
回復魔法も蘇生魔法も意味はない。もう何度も何度も試して、それでも彼らの身体はピクリとも動かなかった。
静寂が包んだ城の広間に、外から微かに歓声が聞こえてくる。きっと魔王が死んだことを知ったのだ。
終わった。
幾年にも及ぶ人間と魔族の戦いが、ようやく終わりを告げた。
平和が訪れたのだ。
もう魔族の者と戦う必要も、いつ殺されるかもわからない夜を過ごすことも、闇を恐れて生きる義務も、今となっては不要の長物だ。
なのに、どうしてだろう。
こんなにも、得たものよりも失ったもののことが頭の中に浮かぶのは。
勝利の喜びの一切が、胸の中に浮かんできてくれない。
――ああ、またか。
また?
またとは、一体どういうことなんだ。
声は、何も応えない。
自分の声は、何も答えない。
――――
魔王を倒すために編成された隊の構成員達は、国へ帰るとまさに英雄扱いだった。至る所で勇者を讃えるための凱旋の宴が開かれ、中でも最も多くの魔物を殺し、魔王も討ち取った俺はその中でもとびきりの待遇だ。
しかしそのどれを見て、聞いて、食べて、飲んでも、一向に俺の心が晴れなかった。
今日も最高級の料理と酒が振る舞われて、多くの民が俺たちの英雄譚を求めて目を輝かせる。
期待に応えるために笑顔の仮面を貼り付けて、あったこともなかったこともごちゃ混ぜにして、壮大な冒険の物語を紡いだ。
子供たちの目は特にキラキラとしていて、思わず失明しそうだと思ってしまったくらいだ。
どうして俺は笑っているのだろう。
そんな疑問は口にせず、自分が英雄であるのだと言い聞かせて、ただ毎日を過ごした。
過ごした、結果――。
――――
「……ぐっ」
首元を強く圧迫されて、そのままグシャリと潰されてしまいそうだった。
鉄のように強固で、棘のようにさえ思えるほどにささくれた綱が、強く喉を締め付ける。
勢いで首の骨が折れてしまえばよかったが、勇者になるために鍛え上げられた肉体は、そんな衝撃をものともしなかった。
だが、そんな勇者だって呼吸ができなければ、ただの肉の塊に過ぎない。
酸素の供給が止まり、肉体が思考と関係なしに暴れ出す。
炎魔法を使えばこんな綱など簡単に燃やし尽くせるが、そんなことをする気は毛頭なかった。
意識が薄れていく。
ああ。
なんとも皮肉な話だ。
世界を恐怖に陥れた魔王にすら殺せなかった男は、たった一本の綱で、今、死ぬ。
蹴り飛ばした椅子が、部屋の中央で不格好に倒れていた。
それが、俺の見た最後の光景。
――いや、『最期』の光景だった。
――――
水の音がした。
滴がしたたり、水面へと落ちる音。
風の音がした。
空気を運び、温度を届ける音。
声が聞こえた。
幾度となく聞いた、女性の声。
「97回目の魔王討伐、お疲れさまでした。勇者様」