文学の価値~なろう小説は、直木賞や芥川賞をとってもおかしくない
エッセイです。
勢い重視ですので、あしからず。
「なろう小説は、直木賞や芥川賞をとってもおかしくないという」内容です。
なろう小説は、実際の所、2010年代の立派な文学だと思っています。
これまでの文学は、現実のつらい状況を書いて救うものが多いです。
特に世界文学というのは、あらすじだけみると、
誰も読まないような、ひどい状況のものが多い。
ドストエフスキーの「罪と罰」では、
政情不安のロシアで、貧乏故に希望を失いつつある学生が、高利貸の老婆を殺して、世界を革命しようとします。
JDサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」は、
学校を退学になって落ち込み、社会に不満がある男子高校生が、家に帰るまでに、娼婦にからかわれたり、恩師だと思っていた先生に襲われそうになったりと、結構大変な目にあう話しです。
たいていの場合、かなりつらい立場の人物を出し、それでも頑張って生きている。
幸せです。最後には救われますとして、未来への希望を提示します。
「今がどんなにどん底でも、未来はよくなる」と提示します。
又は、現状を自己肯定します。
「つらい過酷な状況でも、私はそれで幸せだ」
又は、「つらい私みたいな状況の者も、他にいて安心する。皆つらいんだ」と書き。
つらい状況でも、皆同じだと安心させます。
自己嫌悪に落ちるような行動をし続ける「人間失格」などは、その典型かと思います。
今の日本文学なら、コンビニ人間でしょう。
大卒でコンビニアルバイトしても、それでいいんだよ。
自分の人生に誇りが持てると、自己肯定します。
社会的な空気では、どうしても正社員の方が良いと思われますが、
あえてそこで自己肯定するのが大事です。
権威付けされた文学賞で、この本を受賞させて、後押しするのも正しい権威の使い方だと思います。
権威が認めれば、周りの人も少しは認めるでしょう。
というように。
つらい状況の自己肯定。
未来への希望という形で、文学は人の心の栄養になっていました。
しかし。
今は、漫画・アニメ等のエンタメが人気。
世界文学あわせて、文学等は、基本読まれていません。
エンタメの場合は、完全な妄想と割り切って、
読んでいる間だけ現実を忘れて楽しむ、感情に酔うのが目的です。
でも。
これが流行っているのは、現在の状況にあっていると思います。
そもそもエンタメは、ビールや酒などのアルコール飲料みたいなものです。
意図的に脳を麻痺させて浸る。
これには価値があります。
ストレス発散になりますし、単純に読んでて良い気分になり、明日の元気にもなるでしょう。
実際は効果はあります。
脳のスイッチを切り替えられます。
それに現代ですと。
そもそも、エンタメコンテンツが無料で大量に手に入る時代ですので。
ずっと妄想に浸ってられる、酔っていられます。
経済的な理由等で、一冊の本を何回も読む必要はありません。
良い物を何回も読むよりも、新しい物に人は惹かれます。
職場or学校に行き、帰ってきてから新しいエンタメで充電。
それを毎日繰り返す。
エンタメが無料&安価で供給され続ける内は、「心の活力」になり続けますので問題ないです。
食欲みたいなものです。
お腹がへって、ご飯を食べれば膨れます。
またお腹がへったら、ご飯を食べます。
これをエンタメで繰り返します。
わざわざ疲れている休み時間に「文学」と呼ばれるものを読んで、
「つらい現実を直視し、後に救われる」物語を読み、疲弊しながら自己肯定する必要も無いです。
毎日働くなり日常生活を送り、夜にエンタメで酔って活力を回復。
これを繰り返します。
それで、心を潤わせる続けることができます。
昔、「文学」がはやったのは、一人の時間が多いからだと思います。
家族といても、家に帰って部屋で一人の時間は誰にでもあったはずです。
そういうシーンとした時間があると、無意識的に不安になり、
「あれ、これでいいのかな?」「このままでいいのかな?」と思い。
何か自己肯定するもの、「文学」を求めやすいと思います。
今は、ネットで直ぐに繋がれる、SNSでやりとりできる。
情報が次々更新されるので、厳密な意味で一人でいる時間って少ないです。
他者の情報が入らない空間に、一人でいることってほぼないです。
大抵、スマホや携帯を持っているので、何だかんだ繋がっていますし。
ついつい見てしまいます。意識的にネットを遮断しない限り。
なので、エンタメで充電できているうちは、「心の栄養」に他のものっていらない。
情報が入り続けていると、人って安心するんだと思います。
不安にはなりません。
例は悪いですが、今のエンタメが溢れている空間は、ドラッグ中毒者です。
ドラッグ中毒の問題は、ドラッグを供給し続ける事が出来なくなった場合に、何が何でも手に入れようとすることです。
金があるなどで、安定的に死ぬまで供給しつづけることができれば、異常な使い方をしなければ、健康です。
大抵の人は、お金が尽きて犯罪に走る。
又は、ドラッグ行為が優先順位の一番になり、他の事しなくなる。
働かなくなる等の、社会的な問題です。個人の問題ではありません。
なので、働かなくていい大金持ちがドラッグを使用し続けていても、特に問題ないです。
という説に、似ていると思います。
という風に。
『永続的に無料でエンタメを供給し続ける』事ができれば、多くの人の「心の栄養」になります。
そのため、無料でエンタメ小説が日々供給される「なろう小説」といわれる集団は、多くの人の「心の栄養」になっています。
これは、これまでのエンタメの「壁」を越えて「文学」に昇華されたのではないでしょうか。
この日本への貢献度は、文学賞や、文部科学大臣賞等の、権威付けされた賞を貰っても、おかしくないと思っています。
そして。
「毎日無料でエンタメ(心の栄養)を供給しているなろう小説」を権威付けすることで。
現状の「なろう小説」=「現実逃避」ではなく。
「なろう小説」=「心の栄養」と認識を変更し。
なろう小説を読んでいることに対して、自己肯定させます。
「妄想に浸っても良いんだ」「恥ずかしくないんだ」と強く主張すれば良いんだと思います。
漫画やアニメみたいなものです。
昔は、大人が漫画・アニメを読むのがちょっとアレな空気があったんだと思いますが。
今では、だいぶ一般に認識されています。
「ワンピース」「君の名」を見ても、「ヤバイ人」とは思われないでしょう。
※ある程度の期間、無料でエンタメ作品がこれからも供給され続けるなら。
ずっと「心の栄養」になり続けて問題ないでしょう。
※漫画の「ジャンプ」が何十年も続き、一般的な日本人の倫理観にある程度影響を与えているように
これが、なろう小説が日本の文学だと思う理由です。
※そもそも、日本では文学っぽいと認識されている村上春樹の作品も。
「妄想ダメ、現実見ろ」というよりも。
「つらかったら、妄想世界に浸っていいんだよぉ」という、
優しい自己肯定が強い作品だと感じています。
なので。
「より現実逃避が強く、無料で提供され続けるなろう作品は、多くの人の心の栄養になっており、立派な文学です」
「直木賞や芥川賞などの権威を与えるべきです」
直木賞や芥川賞は、売れにくい純文学を宣伝するための賞なので厳密な意味での目的は異なりますが。
現状は「文学の凄い賞」と一般では認識されています。
そこで。
「ノーベル文学賞=音楽家のボブ・ディラン」風に。
少し枠を超えて、何か分かりやすい権威をあげてもいいんじゃないかと思いました。
と。
勢いでエッセイを書いてみました。
非難的なものでもかまいませんので。
感想等あれば、宜しくお願いします。
WEB拍手、メッセージでもかまいません。