その憂い。
そもそも、何故『聖女』などというものを、この国は、いや説明によると世界は望んだのか。
それは、渇水に大雨、暴風、大雪、地震という、人の力ではどうしようもない天災が相次ぎ、その上で各地で魔物が大量に発生するという事態が、人々に大きな不安と混乱をもたらしたから。
ミサキはそう聞かされた。
それにどう対処するか。多くの国がそれぞれに頭を悩ませたらしい。そして、この国が辿り着いたのが、異世界から『聖女』を招くというものだった。
幾つかの前例があるのだと、頭を悩ませ、数多くの蔵書を紐解いたことで辿り着いた。
強い力を誇る魔道師達が力を合わせ、そして神に願う。
それによって、異世界-常世の国、天上の御国などと言われている場所から、救いをもたらす『聖女』が降り立った。
ある『聖女』は豊穣の神子としての役目を果たした。
ある『聖女』は戦女神として役目を果たした。
紐解いた文献に何度も登場し、それぞれに望まれた役目を見事成し遂げてみせた『聖女』を、この国は召喚しようと試みた。
そして見事成功し、『聖女』は降り立った。
人々を傷つけ、疲弊させる天災。
それには治癒の力を持って癒しを与えた。人々も、作物も、大地さえも癒して、天災の傷痕など無かったことにしてしまう。
少なくとも今を生きる誰もが体験したことのない魔物の大発生には、浄化の力をもって魔物を弱らせ、そして人の居ない地まで退ける。
確かに『聖女』は、人々に救いをもたらした。
その存在は今や、それを召喚したこの国に留まらず、他国にまで恩恵を望まれる唯一無二なるものとなっている。
隣国のみならず、遠い国からも恩恵を分け与えてもらおうと、長い旅路の末に『聖女』との謁見に訪れる。
その全ての目が、ミサキが覆い被る偽りとしての『聖女』を歓喜と懇願をもって見ている。
それらの目が向けられる度に、ミサキは心が重くて仕方なかった。
自分はそんなものではないのだ、そう叫びたくて仕方なかった。
確かに力はある。
手が千切れようと、足が潰されようと、元通りに戻してしまえる治癒の力があった。
黒い靄として見える瘴気を、ただ近づくだけで消してしまえる浄化の力があった。
荒れ狂う魔獣も、ミサキが近づき一撫でしただけで大人しく、借りてきた猫のように鎮まるのだ。
それだけをみれば、確かにミサキは『聖女』なのだろう。
だが、ミサキは彼等が望む『聖女』ではないのだ。
邪心など一切なく公平な清廉さ。
自らの足で農村にまで赴き救いを与える潔白さ。
慈悲と慈愛の化身のような少女。
神は我等に至高の救いを与えたもうた。
そんなことはないのに、ミサキの耳にはそんな賞賛ばかりが届く。
ミサキにとって、それらはただ気鬱でしかない。
心が晴れることはない。
コンコンッ
椅子に座ったまま、テーブルの上の籠を凝視するようにボーッとしていたミサキの耳に、ドアをノックする音が聞こえた。
「はい」
俯き加減になっていた背筋を伸ばし、ミサキは綺麗に整えた笑みを顔に浮かべて返事をする。
それが、彼等の望む『聖女』の姿だと思うから。
誰が入ってくるのだろうか。
侍女?
騎士?
面会を望み、『聖女』の恩恵を得ようとする有力貴族?
それとも、何かと愛していると囁いてくる、皇太子様?
そのどれであろうと、対応するのが憂鬱でしかない、とミサキは最後の溜息を吐いた。
彼等の前では決して、そんな様子を見せる訳にはいかないから。
ミサキが少しでも、そんな姿を見せてしまったら、大騒ぎになるに違いないと知っているのだ。
ミサキの事を、守ってあげなくてはいけない少女だと思っている彼等は、少し過剰ではないかと思えるところがあった。
カチャッ
ドアが開かれ、二つの人影が部屋の中に入ってきた。
「シキ!リュージ!」
見る者が見れば気づけただろう少しの憂いが含まれた微笑みが、その人影が誰なのかに気づいた途端、満面の心の底からの笑顔に変わる。
その名を呼ぶ声も、心成しか、なんて一言を置かなくても弾んでいると分かるものだった。
ミサキにとって幸いだったのは、一人ぼっちではなかったことくらいだ。
『聖女』となってしまった時、ミサキは気心の知れた二人と一緒だった。
シキとリュージ。生まれた時からの付き合いであるこの二人が、ミサキを一人にしなかった。
偽りの生活の中で、この二人だけがミサキの慰めだった。
「変わりは無いか?」
「なぁんか微妙な顔してんね」
堅物という表現があう、表情が凍り付いて動きそうにない、シキ。
鼻歌を歌い出しそうな軽さで手を上げ、ニヤニヤと笑って近づくリュージ。
「二人共、いいところに来たわ。ほら見て?作ってくれたんですって」
正反対な二人がミサキに近づいてきた。
ミサキはそんな二人に席を進めると、自身ではあまり手をつけなかった籠盛りの中のお菓子を見せ、食べるように差し出した。
「うわぁ。なっつかしいし、美味そうじゃん。でも、あんまり食べてないみたいだけど?」
「あまり食べる気がしなくて。心苦しいっていうか。考え過ぎなせいか頭が痛むし…」
でも残すなんて悪いから二人が来てくれて良かった。
ミサキは「食べなよ」とつき返そうとしたリュージに手を振って断り、二人の顔をそれぞれ見ながら食べてしまうように頼む。
「じゃあ、遠慮なく食べるけど。頭痛って大丈夫?医者に診てもらった?」
「そこまでしてもらう程でもないもの。本当に、考え過ぎただけ。私が『聖女』でいいのかって。それで気鬱になってただけだから」
「仕方無いな」
「えっ?」
リュージの心配に顔の前で手を振って「大丈夫」だと伝えていたミサキは、あまりしゃべる性質ではないシキの声を聞いた事に驚き、リュージに向けていた顔を振り向かせた。
僅かに聞こえたと思った言葉は、仕方無い。
それは一体どういう意味なのか。
振り向いたミサキに、シキは手を差し出した。
その掌に乗せられたものを目にした瞬間、ミサキは目を輝かせた。
「うわぁ。シキったら優し~い。何だかんだ言って、ミサキちゃんを甘やかしてるよね」
「ありがとう、シキ」
気鬱に陥っていたミサキの声が一変し弾んだ。