ミモザの花束
しんと静まり返った早朝。
庭園に朝日が差し、木々が長い影を作っている。
鳥のさえずりが心地よく耳に響き、爽やかな風が吹く。
彼女は、ミモザの木の下で待っていた。
毎年この日は必ず、庭園一立派なこのミモザの下にやってくる。
ミモザは春を告げる花。
日差しが緩んできてもまだ空気は冷たい季節に、球状の黄色い小花を枝という枝にたわわに咲かせ、木は黄色一色に染まる。
彼女はこの花が好きだった。
しかし、今は夏だ。
花の時期はとうに過ぎ、青い葉が茂るその下で、彼女は彼が来るのを待っていた。もしかしたら会えるのではないかと、わずかな期待をもって持っていた。
毎年、彼女がこの木のもとを訪れると、なぜか必ずミモザの花が置いてある。
どこから持ってくるのか、季節外れだというのに満開の花が置かれているのだ。
きっと彼に違いないと、彼女は思う。
だから今日は、夜が明ける少し前から木の下で待っていたのだ。
会いたい……
どんな形でも良いから、彼に会いたいと思う。
永遠の別れをしたあの日から、ひと目でいいから会いたいと願いつづけていた。
死によって引き離されても、思いが変わることはなかった。
戦火の中、彼はただ一人私のもとに駆けつけてくれた。
私を救い出そうと、剣を振るった。しかしその顔は血に汚れ、傷ついた体は崩れるように床に伏した。私の目の前で。
あああ……
彼女は顔を覆う。いやいやと小さく頭を振ってすすり泣いた。
バサリと背後で、何かが落ちる音がした。
彼女は振り返る。
「ああ……!」
ミモザの花だ。
いつもの年のように、ミモザの花が置かれている。
彼女の胸は歓喜に震える。
そして急いで辺りを見回し、懐かしい人影を求める。
しかし、彼の姿は見えなかった。
「……いるのでしょう?」
恐る恐る声を振り絞る。
見えないけれど、きっと彼はすぐ近くにいるはずだ。
木の周りをぐるりと回った。
すると、地面に置かれた花の隣で、芝が丸い形に押しつぶされているのに気づいた。
「見つけた……」
にっこりと微笑んだ。
そして、ゆっくりと彼の横に座った。
「会いたかったわ。……ありがとうって伝えたかったのよ。あの時言えなかったから」
彼女がポツリとつぶやくと、彼の声が聞こえてきた。
『あなたには、何度謝っても足りないな。オレは、何も護れなかった……』
彼女は首をひねる。何故、何を謝るというのか。
しかし彼は、懺悔を続ける。己の犯した罪を、彼女に詫び続ける。
苦しげに声を絞り出す彼が、痛ましかった。謝らないで欲しい。自分は感謝を伝えようとしているのだから。
見えぬ彼の方を向いて、彼女は必死に叫ぶ。
「貴方が謝ることなんて何もないわ! そんなに苦しまないで、お願い」
『誰か……、いるのか?』
彼の声の調子が変わった。
今初めて、自分以外の存在に気づいたかのようだ。
「ええ、ここにいるわ。貴方の側に」
そう言い終わらぬうちに、突然と彼女の目の前に彼の姿が見えてきた。
彼女を見つめ、驚いたその顔。
懐かしい彼は、以前と変わっていた。より、たくましく男の顔になっていた。あの頃の、僅かに少年ぽっさを残した顔では無くなっていたのだ。
『これは……どういう奇跡なんだ?』
彼は震える手を彼女に伸ばした。
微笑んで、彼女も手を差し出す。
彼の手は彼女の手をすり抜けていった。
「あ……」
彼はもう一度、手を伸ばし、彼女の肩に触れようとする。
しかし、無情にも手は彼女の体をすり抜けていった。
彼は、悲しそうに笑みを浮かべる。
『あなたは変わらないね……。いつまでも、あの日のままだ』
彼の目から、涙がこぼれた。
ああ……そうだったのかと、彼女はやっと気づいた。
彼は命を落としてはいなかった。そのことを嬉しく思う。
あの日、時間が止まったのは自分の方だったのだ。
*
涼やかな風が流れ、小枝がさわさわと音を立てて揺れた。
彼と彼女は長い時間をかけて、一言、二言、短い言葉を交わす。そして、少し日が高くなってくると、言葉は簡単に尽きてしまった。
話すことには、あまり意味がないように思えた。相手の顔を見ることができたこの奇跡、それだけで充分だった。
黙りこむ二人に、木漏れ日が優しく降り注ぐ。
思い切ったように、彼が口を開いた。
「あなたに会えて良かった。オレの懺悔も今日で終わりにするよ……」
『よかった』
彼は目を細めて、彼女を見つめる。
夢でもいいから会いたいと思った人が、今目の前にいる。
しかし、彼女の姿は徐々に透き通り、ゆらゆらと頼りなげに揺れている。
今度こそ、永遠の別れになるのだろう。
「さようなら」
『さようなら……。ミモザをありがとう』
「忘れない」
『いいえ、忘れてちょうだい。貴方を待っている人の為に……』
「残酷なこと言う」
『ええ……』
彼女はキラキラと輝く木漏れ日の中に、ゆっくりと消えていった。
残された男は、しばし空を見上げていた。
涙が乾くまでの時間、ずっと見上げていた。
頭上を鳥がチチチっと鳴いて、東に向かって飛んでいった。彼らはあっという間に、日に吸い込まれて見えなくなった。
空が眩しい。
おもむろに立ち上がり、ズボンの埃をバンバンと叩いた。
「さあ! 行くとするか!」
彼は朝日に向かって歩き出した。
その背後で満開のミモザの花束が、日の光を浴びて黄金色に輝いていた。