その指輪が欲しくて――或いはある少女の尻が甚大な被害を被ったその顛末
きっかけは、たまたまだった。 ただ、その張り紙が目に入っただけだった。
偶然、親友の誕生日が間近に迫っていて、いいなと思った指輪を買うには財布の余裕が無くて。
何か短期のバイトでも探さなければ、と考えていた自身の身の上に、その内容はぴったりに思えたのだ。
”大食いチャレンジメニュー、30分以内に完食された方に金一封”
*
初日の舞台は、見つけた張り紙に吸い寄せられるように入った、小奇麗な佇まいの料理店だった。
「お待たせ致しました、チャレンジメニューでございます」
ウェイターの型通りの声と共に供されたのは、こんもりと盛られた湯気を立てるパスタだった。 ソースはトマトソースと赤ワインで挽肉を煮込んだボロネーゼ。 そのの香りに、艶やかな黒髪をポニーテールにまとめた少女――冴月輝夜の形の良い鼻がひくひくと動く。
その量は2kg。 洗面器のような直径の皿に盛られた姿に、輝夜は一瞬目を丸くした。
「準備はよろしいですか?」
覚悟を決め、問うてきた店員に頷く。 フォークを手に取り、準備は万端だ。
……臆するな。
たかが、利き手を皿と口に往復させるだけのこと。
「では、どうぞお召し上がりください」
傍らに置かれた大きな砂時計が返される。 その音を合図として、輝夜は皿に取り掛かった。
麺にソースをたっぷりと絡め、フォークで掬い取り、口に運ぶ。 すると芳醇な香りと、肉のうまみが口内いっぱいに広がった。
普段ならばこれを存分に楽しむところだが、そうしている余裕があるかどうか。 だが、無理押しはかえって良くない結果を招くだろう、と、輝夜は慌てずに味わうこととした。
麺の歯切れも素晴らしい。 さすがにプロの味だ、と輝夜は思う。 麺類のゆで加減というものは難しく、自分で作る際なども気を使う。
一口目をゆっくりと嚥下。 フォークを麺の山に沈め、二口目を引き揚げ、口に運ぶ。 美味い。
なるほど繁盛しているわけだ、と周囲の席に目を向ける。 昼食時もそろそろ終わるという時間だが、まだ店は込み合っていた。
店構えから受けた印象どおり、やはり男性客よりも女性客が多い。
ふと、こちらを見ていた一団の若い女性客と目が合う。 そのまま視線を外すのも何なので軽く微笑んでからにすると、きゃあ、と黄色い声が聞こえてきた。 役者さんかなー、とも。
悪いが女でただの留学生だ――そんな事を考えながら食を進める。
……明日は、ちゃんとリボンで髪をまとめよう。
そんなことを考えつつ半分まで片付けたところで、少し味に飽きてきた。 こういった”デカ盛り”を攻略するに当たって問題となるのは、単純な量より、こちらのほうかもしれない。
どうしたものか、と食を進めながら思案する。 今後のためにも対処法を確立しておきたいところだ。
傍らの水は最後の手段だ。 体積の問題もあるし、特に小麦粉を使用しているものの場合、腹の中で膨れる。
ならば卓上調味料だ。 テーブルの端に視線を遣ると、塩、黒胡椒、タバスコ、粉チーズが目に入った。 種族ゆえ常人より鼻が利く自分にとって、香辛料の追加は上策ではない様に思える。
そして手にとったのは粉チーズ。 蓋を開け、これから攻略にかかる一角に一振りした。 かけすぎて味を損ねては元も子もないので、最初は控えめに。
フォークでソースを十分に絡め、すくい、口に運ぶ。 これまでとは違う、チーズの濃厚な香りが口内に広がった。
いける。 己を鼓舞し、輝夜はペースを上げる。 時々チーズの容器を手にとって振り掛けつつ、とうとう最後の一口。 たっぷりソースが絡んだパスタをゆっくりと咀嚼し、十二分に味わって、余韻を惜しみつつ飲み込むと、
「――ごちそうさま」
静かにフォークを置き、戦いの終わりを告げた。
時間は、10分以上余っていた。
*
翌日。
サブカルチャー系の店が立ち並ぶ目抜き通りの裏に、ひっそりと佇む店――大きな黄色の看板に『伝説の牛丼』と大書されたそこが、次なる戦場となった。
「はい、”伝説の牛丼”キング盛りお待ち!」
威勢の良い声と共に、特注の器に盛られた牛丼が運ばれてくる。
こちらに来たばかりの頃、白米が、しかも丼ものが食べられるとは思っておらず、この店の存在は救いのように輝夜には感じられたものだ。 さらには牛丼だ。 肉だ。
「それじゃあ、頑張ってくんな!」
店の親爺の声が耳に快い。 最近は足が向いていなかったこの店だが、またしばらく通おうか、という気分にさせてくれる。
さて、と輝夜は箸を手に取り、改めて目の前に運ばれてきた丼を見据えた。 総量2kg、通常の倍はあろうかという内径の重量感ある器に、甘辛く煮込まれた牛肉と玉葱が隙間なく乗っている。 その下にはタレの染み込んだ艶のある白米がぎっしりと詰まっているはずだ。
……なるほど、王の名を冠するに値する。
見ているだけで、口腔に唾液が溢れてくる。 重量1kgを越えようかという具――牛肉の山!
反面、白飯の量は油断ならない。 我を忘れて肉のみを平らげるようなことになれば、残る炭水化物の塊は壁となって箸を阻むに違いなかった。
戒めとして、輝夜は脳裏に、ある一言を刻み付ける。 すなわち、
……『ごはんはおかず』!
かっと目を見開き、輝夜は丼を片手で取り上げると、猛然と襲い掛かった。
肉の海に箸を突き入れ、下方の白飯ごと切り出すように持ち上げ、普段ならばはしたないと感じるほどの大口を開けて迎え入れる。
そして広がるのはタレ、白飯、肉、玉葱、四者四様の味が渾然一体となった複雑な味。 タレの香りが口から鼻へと抜け、噛めば噛むほどに白米の滋味は増し、溶け出した肉の脂と絡み合う。
ああ、なんて――旨い。
雷鳴の如き速度で箸を進め、しかしよく噛まずに飲み込むなどという無粋はしない。 後々に禍となるし、第一食べ物に失礼というものだ。
添えてある浅漬けも、故国とは少し味の傾向が違うにせよ、実に有難い。 白菜の小気味いい歯ざわりと、程よい酸味が、口の中の油っぽさを洗い流してくれるかのようだ――ちょっと甘いが。
そして味噌汁。 何故あるのか、と考えるのも野暮だろう。 素晴らしきは和の心である。
一周して、再び丼に舞い戻る。 牛丼、味噌汁、お新香――
……これぞ食の黄金三角形!
そうか、昨日苦労したのはこれらがなかったからか、と今更ながら輝夜は認識する。 偉大なるかな漬物。
それからというもの、破竹の勢いで輝夜は食べ続け、
「――ごちそうさま」
ぱん、と手を叩いて完食を告げると、店内のそこここから拍手が沸き起こった。
*
数日後。
あれからさらに数件の店を食べ歩き、目標額まであと少し、というところまで漕ぎつけた輝夜が最後の相手に選んだのは、カレーだった。
「スパマジスペシャルチキンカレー・デビルメイクライ、お待たせしゃしたー」
聞こえてきたネーミングに軽く引いた。 Devil May Cry――悪魔すらも泣き出す辛さとは、果たしていかなるものか。
机と器が触れ合う音と共に目を開く。 赤系の内装が中心の店内にあってなお赤い、どろりとしたものが視界に飛び込んできた。
そして襲ってくる強烈な刺激。 種々のスパイスが織り成す、さながら香りの嵐だ。
鋭敏な輝夜の嗅覚に、それは容赦なく襲い掛かる。 店の外ではいい香りに思えたが、中に入ると頭がクラクラとしだし、いざ目の前に出されてみると、これは、何だ。
……悪魔が泣き出す前に、これ自体が地獄産の何かなんじゃないか。
これを攻略せねばならないのか、と、自身が選択したことを棚に上げて、運命を呪いたくなった。
しかし、やらねばならない。 プレゼントを購うために。 脳裏に浮かぶ笑顔を糧に、歪む視界の隅に映るスプーンへと、のろのろと手を伸ばし、渾身の力を込めてがっしと掴む。
目の前には血の池よりも赤い紅色の、針山よりも刺激的なチキンカレー。 これまで攻略してきたどのメニューよりも量は少ないが、漂う気配はまさにラスボスだ。
……この戦いが終わったら、私――
いかん、これでは死亡フラグだ、と慌ててかぶりを振り、きっと口を真一文字に結ぶ。
――南無三、と紅色の海へとスプーンを突き込み、とろみのあるカレーをすくい上げ、半ば目を瞑りながら口へ。
甘いな、と輝夜は拍子抜けしたような感覚を覚えた。 よく煮込まれた肉と野菜のコクが、舌に確かな味として感じられた、が。
「――!?」
後から襲って来たのは刺激。 辛くはなかった。
――滅茶苦茶に、痛かった。
口腔を、鼻腔を、熱感を伴う痛みに蹂躙される。 飲み下せば、喉奥から食道、食道から胃へと刺激が伝播し、身体が裡から焼かれていると錯覚するほどだ。
唐辛子に全感覚を苛まれつつも、しかし輝夜は手を止めるわけにはいかなかった。 休んではいけないと、彼女の勘の戦いに関する部分がけたたましい警報を発しているが故だ。
水など言語道断。 一瞬の冷却の後に来るのは、反動としてのさらなる熱だ。 注意書きにもそう書いてあった。
ごろっとしたチキンを口内に放り込む。 歯を立てればほろほろと崩れ、しかし溢れるのは鶏肉の味わいではなくスパークするような刺激。
全身から汗が噴出す。 きっと顔は真っ赤だろう。 眼はさっきから潤みっぱなしだ。 頬を伝うのは汗か涙か判然としない。 さらには呼吸するたび洟をすする音がする。
輝夜は思う。 ああ、これは悪魔だってきっと泣くだろうさ、と。 地獄の悪鬼も、はたまた天空の御使いも、ひいては神や仏や魔王ですら、これの前には涙せずにはいられまい、と。
脳内で乱打される半鐘。 口腔内の火勢は増し続け、ひりつく喉は水分を求めてやまない。
ぐらりと世界が歪む。 器に添える手ががたがたと震え始めた。 熱感を送り続けてきていた胃は、急転直下薄ら寒い鈍痛を悲鳴として発している。
全感覚は辛味を超越した辛味に屈服し、汗で肌に貼りついた服すらもう気にはならない。 身体と外界との境界が失せてしまったかのようだった。
……それでも。 それでも、私は、
気魄のみを支えとし、輝夜はそれを食べ続ける。 ひと匙を口に含むたび、自己の認識を失わせかねない程の暴力が荒れ狂う。
五感が焦熱と狂騒に満ち溢れ、思考を赤いノイズがずたずたに切り刻む。
その混沌の中、輝夜は知った顔を見た気がした。
砂嵐の只中に在る悟性が、記憶の糸を踏み外しそうになりながらも、それが誰かを教えてくれる。
……由良。
親友の名を、輝夜は呼んだ。
願うのは、これから買いに行くプレゼントを、彼女が気に入ってくれること。
否、と輝夜はその思考を否定する。 確信があるから、私はそうするのだ、と。
否、それも違う。 確信があって、そして、
……私が、そうさせたいんだ。
他ならぬ自分自身の手で、自分の選んだもので、笑ってほしい。 喜んで欲しい。
頓悟を得たように輝夜は思った。 今や、全てが自らの掌中に在るようだった。 辛味も痛みも熱さも、どこか別世界のことのごとく感じられる。
輝夜はスパートをかけた。 既にカレーは半分を切っている。 スプーンで掬える量の少なさがまだるっこしくなり、輝夜は器を片手で持ち上げた。
そして、一気に掻き込む。 誰かがカレーは飲み物だと言ったが、輝夜のしていることはまさにそれだった。 ごくり、と喉を鳴らしたのは輝夜か、立会いの店員か。
冷めかけてなお熱いものが、喉を通っていく。 その口当たりはするすると滑らかで、常軌を逸した辛味の奥に隠れていた芳醇な香り、コク、甘みが今では余すところ無く感じられる。
夢中で器の中のものを口の中に流し込み、それを終えた輝夜は、晴れやかな表情で器を置くと、
「ご馳走様――美味かった」
素直に、心の底から、その言葉を告げた。
*
以下は、翌日に彼女の末路を見た同居人たちの四者四様の反応である。
「てるよちゃん大丈夫? 薬要る? あ、ずっとついてて看病してあげたほうがいいかな!?」
……有難いがトイレの中までついてこなくていいからな。 いいからな!?
「ほっといてやんなさい、割と自業自得だから。 あ、でも早くトイレ空けなさいよねー」
……は、可及的速やかに善処いたします。 ところでお勧めのカレーがあるのですが。
「クセになったらどうする気だったんだ。 そのうっすい胸で太ったら致命傷だろ色々と」
……余計なお世話だほっとけ。
「思い込んだら試練の路をー、ってヤツだね輝夜ちゃん! でも途中でちょっと振り返ってみても良かったと思うな、あたしは」
……言うな。 大人しく仕事探せばよかったとか、私もちょっと思ってるんだからな。
――なお、誕生日当日については、すこぶる上手くいったという。
凛々しい子には泣き顔が似合う(断言
調べてみましたが、実際にはこうやって賞金を出すお店はほとんど無いようです。 大体は食事代無料、あるいは記念品の贈呈などがほとんどのようで。