あさきゆめみし
***
朝が来た。
うす暗い部屋でもそれがわかったのは、
“君”が帰ってきたってわかったから。
マットの中心に沈み込むようにして寝返りを打った。
遠慮がちに、少しだけ開かれた扉。
隙間から漏れた細い光が、君の輪郭を淡く縁取る。
「……起こしちゃった? ごめん。まだ、眠ってていいのに」
耳の奥をそっと撫でるような、優しい音。
今日も誰かに汚されたであろう君は、そんなこと全く感じさせない風で囁く。
シャツだけを手に、細い光に振り向いた背中。
ほんの一瞬だけ、鼻をついた煙草の香り。
「シャワー、先に浴びさせてもらうね」
そう言って部屋を出ていく。
下品な煙草の匂いの中に、昨日部屋を出たときの君の甘い香りが、まだにじんでた。
***
「今日はさ……外で食べよっか。朝ごはん」
私を見つめてそう言った。
朝の君は、きらびやかな夜の世界のお姫様じゃない。
どこにでもいる。笑顔が素敵な女の子。
「え、うん。でも、もうリンゴ切っちゃったよ?」
耳つきのリンゴが四切れ、小さなお皿に行儀よく並んでる。
まるで餌を待ってるみたいに。
端っこから少しだけ、はみ出たお尻が可愛いらしい。
君は、それを一つ摘んで口に運ぶ。
瑞々しい音が、しゃくり。
「うん。美味しい」
微笑んだ君は、やっぱり素敵。
つんと尖った高い鼻も、リップだけで潤うハリのある唇も、全部ぜんぶすっごくキマってる。
私は思わず手を止めて、じっと見つめちゃう。
「ん? どうかした?」
首を傾ければ、緩くウェーブしたダークブラウンの髪が揺れる。
湖面に浮かぶ満月みたいな、まん丸な瞳が誰かを映してる。
髪ゴムで適当にまとめただけの黒髪。大きなタレ目が眼鏡の奥で、熱に浮かされたように惚けてた。
私だ。
はっとして、目を背ける。
同じ部屋で、同じシャンプーを使って、同じベッドで眠るのに。私と君はこんなにも違う。
君は、私にないものをぜんぶ持ってる。
それでも──
「ねえ、行こう。ほら、律子が喜ぶと思って、お店探したんだから」
君が笑う。私に優しくしてくれる。
こんな私の、いったい何をそんなに気に入ってくれているのか。
「ええっと……でも、私」
「なあに? 嫌だった? 私と朝ごはん」
笑顔のままで、冗談っぽく。
だけど問いかけたその瞳は、ふるりと揺れていた。
そんなわけない。でもいいの?
そんな不安を押し除けるように、私は答えた。
「嬉しい。千尋が選ぶお店は、いつも美味しいから」
私は本当に、いつまでも君の隣にいていいの?
***
「うまくいかなかったか……」
上司は私を前に、心底くたびれたように息を吐いた。
私はなぜか前髪を直してる。
目を合わせることができなくて、視線はじっと、上司の膝から下。
「もういいぞ。今日はお疲れさま」
そう言って、上司がデスクに振り向く。
メールBOXを開けば、出てきたのは私がミスをした取引先のチーム長の名前。
「あ……あの」
その背中に向かって声を、出そうとした。
でも、何て言ったらいいかわからない。
謝罪は、さっきした。
もう一度チャンスを……本来なら、そう言うべきだったのかも。
けど、私よりも先に上司が助け船を出した。
「気にするな。お前の力量を測れなかった、俺の責任もある……よく頑張ったな」
カタカタと、キーボードを叩く音。落ち着いた声。
上司の顔は見えない。きっと、うんざりした目をしているんだろう。
「ご、ごめ……」
「いいから」
上司がもう一度振り返って、私を見る。
やっと目が合った。いや、合ってしまった。
優しい顔。でも、疲れた顔。
「すみませんでした」
頭を下げて、静かに部屋を出る。
泣いてはいない。ただ、彼にそんな顔をさせるほど、私は自分を好きじゃない。
***
夜の街。
すっかり陽が沈んでも、この街は眠らない。
定時はとうに過ぎているはずなのに、ビルの照明はまだ落ちない。
向かいのビル。その明るい窓の向こうで、紙コップを持ったスーツ姿の男女が、楽しそうに会話している。
キラキラして、自信に溢れた顔で。
同じ街で働いているのに、なぜこうも違うの?
自分がひどく、惨めになる。
私は思わず一本、通りを変えた。
暗い路地に、遠く響いてくる笑い声。
自販機の明かり。ゴォと唸る、排気ファンの音。
道の向こうは、輝く夜の街。
ここは境目だ──。
昼と夜の。
排気ファンの生ぬるい風が、私の髪を撫でる。
胡椒と油の香り。
気持ち悪くて、走り抜けた。
ぬるりとした地面に、いくつも転がる煙草の吸い殻。
道脇に置かれた空き缶。捨てられた自転車。
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い──
走る。走る。走る。
反転──真っ暗だった視界が、ふいに明るく染まる。
目の前には、どこにいたのかと思うくらい。大勢の人波。
赤ら顔の中年。愛想を振り撒く店員に、大声で歌うように肩を組んで歩く若者たち。
背中を向けば、あの暗い路地がポッカリとただ口を開けている。
私の働くオフィスのビルは、もう見えなかった。
ここから駅まで、そう遠くない。
私はゆっくり歩き出す。
知ってる道。知らない街。
暗い空。明るい夜。
この街は本当に、私の知っているあの街なんだろうか。
彷徨わせた視界の中、昼の手がかりを必死に探す。
そのとき──
「……あ」
思わず声を上げたのは、そこに君がいたからだった。
上品な黒のトップスに、白黒ツイードのミニ丈フレアスカート。
スラリと伸びた華奢な足先には、ストラップ付きのパンプス。
綺麗だと思った。
部屋で見る君とは違う、戦場へ向かう君。
凛と伸びた背筋が、強くて優しくて、どうしようもなく素敵だった。
私もそっちへ行けば、君みたいになれるのかな。
この明るい夜の世界でだったら、君と一つになれるのかな。
そんな考えが、ふと頭をよぎる。
「あ……」
そのとき、君が私を見つける。
驚いた顔で、私を見つめる。
疲れきった私と──あまりに美しい君。
何もかもが正反対に見えて、思わず言いかけた言葉。
だけど、私は飲み込んでしまった。
君の肩に、私の知らない誰かの手が伸びたから。
振り返って、笑う君。
でも、その顔……違う。
私の知ってる、君の笑顔じゃない。
二人が談笑しながら横を通り過ぎる。何を話してるかは、私にはわからない。
けど──
「見ないよ。だから、あなたも私を見ないで」
小さく、でも確かに君はそう言った。
「え……」
振り返った背中。
でも、君は振り向かない。
その言葉で、私は知った。
君もまた、ここでしか生きられないから、この場所に立ってるんだってことを。
***
また朝が来る。
君は少し疲れた顔で、それでも笑って言う。
「おはよ。起こしちゃった?」
「ううん」
私は君になれない。君も私にはなれない。
だからこそ、私たちは惹かれあった。
もう他人じゃなくなった君が、私に擦り寄ってくる。
布越しに感じる体温。同じ香り。
衣擦れの音。昨晩見た夢のあとが、白いシーツに影を作った。
「律子。今日休みだよね」
「うん、千尋も」
じっと隣を見る。
「朝ごはん。作ってよ。あのリンゴ」
「もう。千尋ったら、そればっかり」
二人して笑った。
同じ朝は二度とない。
同じ夜も。
一つになれないからこそ、二つのままでいい。
欠けた未完成のままで、ずっと君を好きでいたい。
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